118)MGF

M.G.

MG

MGという名前は、ヴェテランのクルマ好きにとっては憧れのブランドとして、強く印象に残っている。1924年にセシル・キムバーというひとりのクルマ好きによって設立され、MGとはモーリス・ガラージの頭文字だから正しくはM.G.と書くんだ、などという話は先輩から繰り返し聞かされたものだ。MGA、MGB、MGミジェットといった身近かなオープン・スポーツカーは、クルマ趣味入門の格好のアイテムとして、広くその名が知られた。
 なにはともあれスポーツカーの典型というようなものだから、そのテイストはいまでも変わらぬひとつの「お手本」として大いに尊重されるべきものといえる。MGAの前には「Tシリーズ」と呼ばれる古典的味わいの一連のスポーツカー、のちには「MG」のネームヴァリウを活かして、MGFやMG RV8といったスポーツカーを送り出したりしている。  MGは、戦前のうちにモーリス社に吸収されその一ブランドとなり、さらに1952年~BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレイション)社、1967年~BL(ブリティッシュ・レイランド)社、その後もオースティン・ローヴァ社、ローヴァ社と合併、変更を繰り返し、BMW傘下になったのち、MGはブランドだけがひとり歩きしている。
■ MGF/MGF
*MG MODERN*

 コンパクトなボディ・サイズ、ミドシップ・レイアウトのオープン、それに憧れの「MG」のエンブレムが付くとなれば、クルマ好きならば誰しもが 注目させられてしまうにちがいあるまい。さきにMG RV8で根強い「MG」の人気を感じ取って、ふたたびMGブランド再興を目指して1995年に登場させたのがMGFだった。  ホイールベース2375mm、全長でも4mに満たないサイズは、飛び抜けて個性的というわけではないけれどよくまとまったスタイリングとともに、過不足のない好もしいスポーツカーを実現していた。それは性能などにもよく現われていて、決してスーパーな性能ではないけれど、オープンエア・モータリングを気軽に楽しむ、という点では実にMGらしい1台といえた。

 わが国での発表会、さらには日本国内、英国本国などで機会あるたびにMGFを試乗した。仕事というより、MGFで楽しい日々を実践した、というようなものだった。まったく持て余すことなく、実用にもなり、かつてのMGがそうであったように、趣味の入門用としても、またちょっと趣味性のある生活を演出する小道具としても、実に有用な存在だと確認した。  「MGF」本の項目でも書いたけれど、英国内では老夫婦がMGFを駆って、国内旅行をしているのに幾度か遭遇し、実際に新車は多くのヴェテランに売れていた。それはいまでも同じことがいえる。遅くはない、いまからでもMGFを駆って全国トゥアーなぞいかが。MGFは決して手に余らない、伝統的なMGの特徴をそのまま引き継いでいた。惜しむらくは、英国自動車産業の全体的な低迷の陰で、なし崩しに消滅してしまったことだ。

117)MGミジェット1500

M.G.

MG

MGという名前は、ヴェテランのクルマ好きにとっては憧れのブランドとして、強く印象に残っている。1924年にセシル・キムバーというひとりのクルマ好きによって設立され、MGとはモーリス・ガラージの頭文字だから正しくはM.G.と書くんだ、などという話は先輩から繰り返し聞かされたものだ。MGA、MGB、MGミジェットといった身近かなオープン・スポーツカーは、クルマ趣味入門の格好のアイテムとして、広くその名が知られた。
 なにはともあれスポーツカーの典型というようなものだから、そのテイストはいまでも変わらぬひとつの「お手本」として大いに尊重されるべきものといえる。MGAの前には「Tシリーズ」と呼ばれる古典的味わいの一連のスポーツカー、のちには「MG」のネームヴァリウを活かして、MGFやMG RV8といったスポーツカーを送り出したりしている。  MGは、戦前のうちにモーリス社に吸収されその一ブランドとなり、さらに1952年~BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレイション)社、1967年~BL(ブリティッシュ・レイランド)社、その後もオースティン・ローヴァ社、ローヴァ社と合併、変更を繰り返し、BMW傘下になったのち、MGはブランドだけがひとり歩きしている。
■ MGミジェット1500/MG Midget 1500
*MG CLASSIC*

 MGミジェットこそ佳き時代の英国スポーツカーの入門篇、同時に飽きることのないベイシック・スポーツカーとして、多くのことを学べる貴重な存在であった。1960年代はじめに誕生し、1980年までつくられつづけたのだが、後半はスポーツカーにとって不幸な時代、はたまた英国自動車メーカーの混乱などに巻き込まれ、チェンジするたびに好まぬ方向にいく、などと嘆く声が訊かれたものだ。  具体的にいうと、エンジンは合理化や排出ガス規制などに対応して、トライアンフ・スピットファイア用の1.5Lが流用されたり、車体も安全基準を満たすために視覚的に重たい樹脂製のバンパーを強制されたりした。  ここで敢えて最終期に近いMG1500を採り上げるのも、いまにしてみればこの時期のMGミジェット1500でさえ、充分にスポーツカー・テイストを味合わせてくれる、そんな気がするからだ。確かに、メッキのアイアン・バンパーを備えMGらしいグリルを備えた姿の方が軽快。エンジンも、ひとつ前の1.3L時代の快活な反応から較べるといささか鈍重。小排気量で快活なエンジンで小気味よく走る、といったMGミジェット本来のフィーリングはいささか失われている。  でも、トップを降ろしてオープンで走り出せば、いささかの懐かしさをともなったスポーツカー本来の味覚が甦ってくる。入門篇にして永遠の存在。現代のロードスターなどが指針にするような存在なのであった。

116)MG エムジー MGA

M.G.

MG

MGという名前は、ヴェテランのクルマ好きにとっては憧れのブランドとして、強く印象に残っている。1924年にセシル・キムバーというひとりのクルマ好きによって設立され、MGとはモーリス・ガラージの頭文字だから正しくはM.G.と書くんだ、などという話は先輩から繰り返し聞かされたものだ。MGA、MGB、MGミジェットといった身近かなオープン・スポーツカーは、クルマ趣味入門の格好のアイテムとして、広くその名が知られた。
 なにはともあれスポーツカーの典型というようなものだから、そのテイストはいまでも変わらぬひとつの「お手本」として大いに尊重されるべきものといえる。MGAの前には「Tシリーズ」と呼ばれる古典的味わいの一連のスポーツカー、のちには「MG」のネームヴァリウを活かして、MGFやMG RV8といったスポーツカーを送り出したりしている。  MGは、戦前のうちにモーリス社に吸収されその一ブランドとなり、さらに1952年~BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレイション)社、1967年~BL(ブリティッシュ・レイランド)社、その後もオースティン・ローヴァ社、ローヴァ社と合併、変更を繰り返し、BMW傘下になったのち、MGはブランドだけがひとり歩きしている。
■ MGA/MGA
*MG CLASSIC*

 MGAはモデル名だから、英国では正しくは「MG MGA」というんだ、と英国車党の大先輩は教えてくれたが、わが国ではMGAで通る。先の古典的なMG Tシリーズ・ミジェットの後継として1955年に登場した。ふたつを並べてみるとよく解るのだが、Tシリーズからは大きく変身したスタイリングは、なによりもMGAを新鮮にみせた。いま見ても、どこにも破綻のないよくまとまったスタイリングだ。それまでフレームの上に乗って運転するが如くだったのを、シャシーを変形させることで低い着座姿勢を実現。現代でも違和感のないスポーツカー・ポジションであることも特筆されよう。  当初1.5Lエンジンで登場、1959年から1.6Lに拡大されて、MGA1600Mk-Ⅱを名乗る。途中、「fhc」モデルが追加されたほか、1958年にはDOHC化したMGAトゥインカムがつくられたりした。初期のDOHCエンジンでなかなか維持が大変だったと訊く。  それにしても、MGAの最大の魅力はスタイリングから醸し出されるその雰囲気に尽きよう。英国紳士を気取るもよし、ちょっとスポーティに決めて攻めてみるもよし、というところ。

115)スマート4/2

Mercedes-Benz

メルセデス・ベンツ

保育社から「世界の名車」第16巻を上梓した時、メルセデス・ベンツに対してつけた惹句は「自動車の王道を行く/世界の最高であり/スタンダード ―― メルセデス・ベンツ」。いまもそうだが、泰然自若とした雰囲気とともに、つねに注目を集めるブランドである。
 初めてこの世に「自動車」というものをたらしたブランドは、その後もずっと世界のお手本というようなポジションを守り通している。安全とか「エコ」とか、自動車に課せられてくる大きな命題に対しても、慌てて急ぎ過ぎることなくメルセデスならではの規範で対応する。口で言うのは簡単だが、それを長きにわたってつづけている確かさのようなものが、メルセデス・ベンツの真骨頂というものだろう。
■ スマート4/2 /Smart four/two
*MERCEDES-BENZ MODERN*

 ミレニアム前のことだったと思う。イタリア、フランスと取材で出掛けた時、パリでやけに目についたのが、小さく文字通りスマートなシティ・コミュータ風のクルマであった。コンパクトなボディに派手なカラーリング。これは日本でもヒットする、いやヒットすればわが国の交通事情も少し変わるだろうに、と思ったのを憶えている。
 いうまでもない、それが時計のスウォッチ社とダイムラー社がタッグを組んで送り出した「スウォッチ・カー」であった。なにが、といってその2色に塗り分けられたカラーが素敵であった。その色合い、存在をみてしまえば、もうパワーがどうの足周りがどうの、なんていうもろもろはどうでもよくなってしまう。こんな素敵なのりもので買い物に出掛けたら気分がいいだろうな、そんなことしか頭になくなってくる。スウォッチならぬスウィッチを切り替えられてしまうのだ。
 待望のうちに2000年からわが国にも正式輸入がはじまるが、それは「スウォッチ・カー」のMCC社からスウォッチ社が撤退、完全にダイムラー・クライスラーの傘下に入ったのと時を同じくする。2002年からは社名も「スマート」社になった。
 それにしても、軽快なコミュータ。使い途に割り切りさえできれば、こんなに明快なのりものはない。遊び用のスマート・クロスブレードやスマート4/2エレクトリック・ドライヴなどの話題を含めて、ライフスタイルで選べばちょっとした自己主張にもなる。

114)メルセデス・ベンツ230SL

Mercedes-Benz

メルセデス・ベンツ

保育社から「世界の名車」第16巻を上梓した時、メルセデス・ベンツに対してつけた惹句は「自動車の王道を行く/世界の最高であり/スタンダード ―― メルセデス・ベンツ」。いまもそうだが、泰然自若とした雰囲気とともに、つねに注目を集めるブランドである。
 初めてこの世に「自動車」というものをたらしたブランドは、その後もずっと世界のお手本というようなポジションを守り通している。安全とか「エコ」とか、自動車に課せられてくる大きな命題に対しても、慌てて急ぎ過ぎることなくメルセデスならではの規範で対応する。口で言うのは簡単だが、それを長きにわたってつづけている確かさのようなものが、メルセデス・ベンツの真骨頂というものだろう。
■ メルセデス・ベンツ230SL/Mercedes Benz 230SL
*MERCEDES-BENZ CLASSIC*

 永遠の趣味アイテム、数あるメルセデスのなかで「W113」メルセデスを選んだ。先のメルセデス300SL/190SLにつづく「SL」の第二世代というもので、旧き佳き1960年代のメルセデスだ。中央部が凹んだ「パゴダ・ルーフ」HTと「タテ目」と愛称されるカヴァ付ヘッドランプが魅力のポイント。後者は当時のサルーン・モデルにも共通する。
 1963年に型式W113メルセデス230SLとして発表されたのち、1967年に250SL、1968年に280SLと変化しつつ1971年まで生産がつづいたこのシリーズは、海外の愛好者に「パゴダSLシリーズ」などと呼ばれたりしている。  なにはともあれ明快でクリーンなスタイリング、傑出してはいないけれどよくつくられた不足のないメカニカル・コンポーネンツ、それになによりメルセデスならではのつくりのよさなどが相乗して、いまでも人気は高い。趣味専用のアイテムというのではなく、実用としても使いながら趣味のいいライフスタイルを演出するアイテムとして「W113」系は確かに絶好の存在といえる。それこそオトナの趣味グルマ、厭味のない素敵なメルセデス。悪くないなあ。

113)メルセデス・ベンツ300SL「ガルウイング」

Mercedes-Benz

メルセデス・ベンツ

保育社から「世界の名車」第16巻を上梓した時、メルセデス・ベンツに対してつけた惹句は「自動車の王道を行く/世界の最高であり/スタンダード ―― メルセデス・ベンツ」。いまもそうだが、泰然自若とした雰囲気とともに、つねに注目を集めるブランドである。
 初めてこの世に「自動車」というものをたらしたブランドは、その後もずっと世界のお手本というようなポジションを守り通している。安全とか「エコ」とか、自動車に課せられてくる大きな命題に対しても、慌てて急ぎ過ぎることなくメルセデスならではの規範で対応する。口で言うのは簡単だが、それを長きにわたってつづけている確かさのようなものが、メルセデス・ベンツの真骨頂というものだろう。
■ メルセデス・ベンツ300SL「ガルウイング」/Mercedes Benz 300SL ‘Gull-wing’
*MERCEDES-BENZ CLASSIC*

 1954年に発表されたメルセデス・ベンツ300SLをして「紀元前のスーパーカー」と形容することがある。たしかにテューブラー・スペース・フレームや燃料噴射式を採用したエンジン、それに並外れた高性能であることなど、ランボルギーニ・ミウラのミドシップほどではないにせよ、おおいに画期的でスーパーな存在である。なによりも上方に大きく翼を広げるような「ガルウイング」ドアはメルセデス300SLをして、別世界ののりものというイメージを起こさせる。  さて、その「ガルウイング」ドア下部のレヴァを引き出してロックを解除、上方に開いて乗込む。乗降のさまたげを少しでもなくすよう、ステアリング・ホイールは跳ね上げられるようになっている。それでも、高い敷居をよいしょと跨いで、遥かに低い位置のシートに腰を沈める。普通のドアではほとんど乗り降り不可能、ガルウイングは不可欠の装備ということが即座に理解できる。乗込んだメルセデス300SLのコクピットは、クラシカルな佇まいのなかにも、深紅の革とボディカラーとクロームのモールなどで彩られた素晴しい空間である。

 もともとはレース目的で開発されたメルセデス300SLだが、市販化に際して、それこそ当時世界一といっていいスペックかちりばめられている。それは、上質に仕上げられた装備類についてもいえることで、まさしくスーパーカーの印象であった。コースをなん周かさせてもらったが、クラシックな印象のなかにも、当時の超高性能クーペの片鱗が感じ取れた。エアコンもない時代、窓の空かないコクピットは、走る季節を選ぶんだろうなあ、などと思いつつ。  1952年のレースで勝利したワークスカーの活躍から、これを是非市販モデルとしてつくって欲しい、とダイムラー・ベンツ社に働きかけたのは、米国で輸入ディーラーを経営していたマックス・ホフマン。彼はポルシェの「スピードスター」などの企画者としても知られるが、このスーパー・スポーツを1000台売ってみせると説得。実際に市販されたメルセデス300SLは1400台のヒットをみるのだから、当時のミリオネアもスーパーカーを待望していた、ということか。

112)ユーノス・ロードスター

Mazda

マツダ

思い返してみれば、マツダは独自の規範で時代に名を残す意欲的なモデルをいくつも残してきた。いうまでもなくその筆頭は、マツダ・コスモ・スポーツにはじまるロータリイ・エンジンを搭載した一連のスポーツ・モデルだ。ファミリア・ロータタリー・クーペ、RX-3サバンナ、RX-7、RX-8とつづく系譜は、わが国の自動車史においても独自のポジションを保っている。このなかにも、前輪駆動のRX-87ルーチェ・ロータリー・クーペなどという隠れた意欲作も含まれる。
 そんなマツダだが、昨今はまったくちがう顔を見せている。マツダ・デミオのヒットはご同慶だし、基本に忠実なスポーツカー、ユーノス/マツダ・ロードスターの存在も忘れられない。
■ ユーノス・ロードスター/Eunos roadster
*MAZDA CLASSIC*

 クルマ好きのアイテムはそれこそライトなものからディープなものまであるけれど、多くのヒトにスポーツカーの楽しみを提供してくれた存在として、ユーノス・ロードスターの名前は忘れることができない。マーケティングとやらが主導権を握り、ありきたりのクルマしか登場しづらくなっていた時代に、クルマを走らせる愉しさを主張して登場したスポーツカーは、それだけで大きなインパクトだった。なにより証拠に、それ以降、ドイツやイタリアでオープン・スポーツが次々に登場してくるのをみるにつけ、ちょっと誇らしい気持ちでロードスターを語れるような気さえするのだ。
 思い返してみれば、初代のロードスターが当時のユーノス店から発売になったのは1989年。その数ヶ月前の5月に米国でヴェイルを脱いだというのも、当時の日本国内のクルマ環境が思い浮かぶではないか。
 マツダ社内のクルマ好きが集まって趣味のようにしてつくった(それを「サンデイ・プロジェクト」などと呼んだりする)モデル。そう訊くと、ロードスターのシンプルで基本に忠実な性格も頷ける。ひとりの個性が際立つような欧州のスポーツカーではなくて、みんなが集まってスポーツカーの魅力を抽出したらこんな形になった。そんなケレン味のなさがロードスターの魅力となって備わっている。
 先ごろデビュウしたばかりのアルファ・ロメオとのシャシー共用第四代目も気になるが、NA系と呼ばれる初代のライト感が素敵だ。

111)マツダ・コスモ・スポーツ

Mazda

マツダ

思い返してみれば、マツダは独自の規範で時代に名を残す意欲的なモデルをいくつも残してきた。いうまでもなくその筆頭は、マツダ・コスモ・スポーツにはじまるロータリイ・エンジンを搭載した一連のスポーツ・モデルだ。ファミリア・ロータタリー・クーペ、RX-3サバンナ、RX-7、RX-8とつづく系譜は、わが国の自動車史においても独自のポジションを保っている。このなかにも、前輪駆動のRX-87ルーチェ・ロータリー・クーペなどという隠れた意欲作も含まれる。
 そんなマツダだが、昨今はまったくちがう顔を見せている。マツダ・デミオのヒットはご同慶だし、基本に忠実なスポーツカー、ユーノス/マツダ・ロードスターの存在も忘れられない。
■ マツダ・コスモ・スポーツ/Mazda Cosmo sport
*MAZDA CLASSIC*

 わが国産車のなかで、忘れることのできないひとつにマツダ・コスモ・スポーツがある。技術的にだけでなく、いろいろな面で発展途上にあった国産メーカーの意欲が感じ取れるものだ。高いところを目指してつくり出された国産スーパーカーといってもいい。  なにをさておいてもロータリイ・エンジン。ドイツはヴァンケル社のライセンスを利用したとはいえ、実用化したほとんどはマツダの力によるものといっていい。2ローターの高性能エンジンは、新しいものに対するさまざまな風評などをさておいて、新境地をみせるものであった。完成したばかりのコスモ・スポーツを当時の社長自らがステアリングを握って、広島から東京のモーター・ショウ会場に駆けつけたという話は、語り草というものだ。  もちろんエンジンをはじめとするメカニズムの興味が一番なのだが、イノウエはそのスタイリング、内装などにも惹かれる。フェラーリ「スーパーアメリカ」などにヒントを得たのだろうスタイリングは、しかし、「スーパーアメリカ」に較べてもずっとスタイリッシュだ。もちろん、目的がちがうのだが、小さなキャビンからリアにかけてはコスモ・スポーツの個性が光る。内装もチェッカー模様のシートをはじめ、コクピットの雰囲気もゾクゾクさせられる。  エレガントなトヨタ2000GTに対して、ダイナミックなコスモ・スポーツ、といえばわが国を代表する佳き時代の最高峰だ。

110)マセラティ・メラクSS

Maserati

マセラティ

2014年で「100周年」を祝ったマセラティは、ひと口でいえばイタリアの名門ブランドというに尽きる。なんども経営危機に陥り、シトロエン、デ・トマソ、フィアットなどの傘の下に入りつつも、創始者、マセラティ三兄弟の結付きを表す、ネプチューン神の持つ三叉のモリ「トライデント」エンブレムは、古今のマセラティ車のフロントに輝きつづけている。
 基本的には上級のスポーツカー、サルーン・ブランドだが、歴史的にはレースでの栄光、ときに個性的なスーパーカーなど、マセラティにはつねに羨望のまなざしが向けられていた。1980年代の四角く巨大なマセラティ・クアトロポルテⅢを走らせ、あまりの迫力に感動しつつ、メルセデスではなくてマセラティを選ぶ社長さんに親しみを憶えたりしたものだ。その後も、ガンディーニ・デザインのクアトロポルテ(Ⅳ)では九州まで快適至極のロング・トゥアーをしたり、はたまたマセラティ3200GTでイタリアを走ったり、いつの間にかマセラティにはずいぶんお近づきになっている。
 近年は独自の個性と存在感で生産台数を増しているマセラティ。高性能高級サルーン/GTのイタリア代表として、しばらく君臨しつづけるにちがいない。
■ マセラティ・メラクSS/Maserati Merak SS
*MASERATI CLASSIC*

 なんだなんだ、もう一度ボーラが出てきたぜ、などというなかれ。同じマセラティのミドシップ・スーパーカー、ほとんど同じボディを共用しているとはいえ、実際に走らせてみると大いに異なるテイストのマセラティ・メラクである。1965年からマセラティ社はシトロエンの傘下にあった。先に少し説明を加えておくと、その後、シトロエンがプジョーの傘下に入ったこともあり、一時デ・トマソを経て、1993年からフィアットのもとで今日に至る。
 で、マセラティ・メラクはシトロエンの色が強く感じられるモデルとして、記憶に残っているのだ。つまり、ボーラの廉価モデルとしてV6エンジン搭載、2+2という、フェラーリにおけるディーノ308GT4、ランボルギーニにおけるウラコに対応するモデルとして企画されたのだった。そのV6エンジンというのがシトロエンSMにも載せられたマセラティ・デザインの3.0L、190PSユニット。エンジンが小さくなった分、最小限ながらリアに+2シートの余裕ができた、というわけだ。

 ホイールベースはじめ、ボディの多くをボーラと共有することは前述の通り。あtらしいアイディアとして、エンジン・ルームの排気のことを考えて、ファストバックにはせず垂直のリア・ウィンドウで上部はカットした形にされた。しかし、それでは視覚的にまるでピックアップのよう。そこでどうしたかというと、斜めのバーを付けることによって、アウトラインはボーラと同じようにスタイリッシュにまとめられたのであった。
 初期モデルは、シトロエンのメーターパネルやステアリングホイールなどもアクの強いシトロエン製で、運転する雰囲気は大いに特徴的であった。1975年には220PSにパワーアップしたメラクSSに。そのときはシトロエン社と離別していたため、室内などマセラティ化が進められていた。

109)ロータス・ヨーロッパS2

Lotus

ロータス

コーリン・チャプマンという人物は、佳き時代のクルマ立志伝中の人物。学生時代、ガール・フレンドの父上のガレージを借りてはじめたクルマづくりからスタートし、ロータス社を興し、いくつものエポックメイキングなモデルを送り出し、F1コンストラクターにまで登り詰める。まさしく、クルマ好きの描く夢をいくつも実現してみせた。
 そうした背景もあってか、クルマ好きはロータス車をこよなく愛好し、少なからぬ尊敬を抱いてしまう。初期の意欲作、ロータス(オリジナル)エリートにはじまり、エラン、ヨーロッパといった傑作を残し、エスプリでスーパーカー世界にまで躍り出る。チャプマンの急逝を以ってひとつの時代は終わり、世情の変化もあってしばらく不遇の時代を過ごすことになるが、ロータス・エリーゼでふたたびクルマ好きのアイドルの座を得て、今日に至っているのはご存知の通り。スーパー・セヴンというロータス由来の永遠の1台も含め、その存在は大きい。
■ ロータス・ヨーロッパS2/Lotus Europa S2
*LOTUS CLASSIC*

 ロータスがつねに新しいものを追いかけていた印象があるのは、エランにつづくヨーロッパがまたいくつもの新鮮なインパクトの持ち主だったことも大きく影響している。そう、ただし、われわれがよく知るロータス・ヨーロッパというと、小型のくせに「ビッグ・ヴァルヴ」エンジンを搭載しスーパーカー並みの存在感をみせた最終期のヨーロッパ・スペシャル(タイプ74)を思い浮かべよう。しかし、本来タイプ46として誕生した時のヨーロッパはかなり性格を異にするものであった。
 なにしろ、ロータス社にとってのヨーロッパの位置づけは「セヴンの後継」というものであった。つまり安価にスポーツGTを提供するというもので、徹底的にコストダウンを図ったがゆえに、鋼板組立てのシャシーは脱着不可能、サイド・ウィンドウも固定式というようなものであった。エンジンも乗用車ルノー16用が搭載された。それでも、エランから発展した鋼板シャシーを持つミドシップ・レイアウトは斬新そのもの。軽量ボディの助けによって侮りがたい性能を得たのだった。
 しかし、初期モデルはその名の通り欧州本土、フランスで販売されただけで、いくつかを改良のうえ、2年後の1968年にヨーロッパS2(タイプ54)として送り出され、ようやく広く認められた。ドア・ウィンドウが開閉式になった、などと訊くと、ヨーロッパS2にして、ようやく実用に足るものになったというところか。相変わらずルノー製のOHVエンジンだったが、軽量コンパクトなGTといった性格は明快なものであった。

108)ロータス・エランS1

Lotus

ロータス

コーリン・チャプマンという人物は、佳き時代のクルマ立志伝中の人物。学生時代、ガール・フレンドの父上のガレージを借りてはじめたクルマづくりからスタートし、ロータス社を興し、いくつものエポックメイキングなモデルを送り出し、F1コンストラクターにまで登り詰める。まさしく、クルマ好きの描く夢をいくつも実現してみせた。
 そうした背景もあってか、クルマ好きはロータス車をこよなく愛好し、少なからぬ尊敬を抱いてしまう。初期の意欲作、ロータス(オリジナル)エリートにはじまり、エラン、ヨーロッパといった傑作を残し、エスプリでスーパーカー世界にまで躍り出る。チャプマンの急逝を以ってひとつの時代は終わり、世情の変化もあってしばらく不遇の時代を過ごすことになるが、ロータス・エリーゼでふたたびクルマ好きのアイドルの座を得て、今日に至っているのはご存知の通り。スーパー・セヴンというロータス由来の永遠の1台も含め、その存在は大きい。
■ ロータス・エランS1/Lotus Elan S1
*LOTUS CLASSIC*

 現代でもスポーツカー・ブランドとして人気の高いロータス。いまなお高い注目を集めているロータスの「古典」というべきが、タイプ26、ロータス・エランのシリーズ1ことS1である。単純に性能だけで較べたらのちのたとえばエラン・スプリントなどの方が、エンジン・パワーをはじめとして進化している。だがしかし、趣味という価値観でみると、そのモデルのオリジンには企画者の思いがよりダイレクトに詰まっていて、興味深かったりするのだ。
 さて、エランS1は浮いたり沈んだりを繰り返していたロータス社が、二度目の浮上を目してつくり出した渾身の作。つまり、ロータス・セヴンで成功しロータス社を立ち上げるも、当時の新素材FRPを使ったエリートの生産性の悪さで倒産の危機にまで瀕していた1960年代はじめ、ふたたびのヒット作となったのがエランだった。

 ところで、エランをして英国スポーツカーの典型、代表のようにいわれたりするが、それは少しちがう。ロータスはことさら個性的であるコトを重んじる傾向にあり、むしろ英国スポーツカーの異端といってもいいほどだ。先のFRPモノコックの経験から、エランには鋼板を組んだバックボーン・フレームがつくられた。それは独創的な形で、前方にエンジンを抱え込み、後方はデフを吊り、四隅にサスペンションを受ける。それにFRP製のボディを被せるわけで、ストレスのほとんどシャシーが受けることからボディの自由度は大きい。初期のS1はオープン・ボディで、サイド・ウィンドウはサッシレスの釣り合い式。助手席側のグローヴボックスが独立していることや小さな2対のテールランプ、キャップ付のホイールなどが特徴。
 フォード116E型をDOHCにチューンニングしたエンジンは、この軽量ボディにとっては圧倒的で、「ライトウェイト・スポーツカー」のお手本のような走りを提供してくれる。それに、オリジンであるというプライドを携えて、エランS1は濃密な趣味生活のアイテムになるのだ。

107)ランチア・ストラトスHF

Lancia

ランチア

ランチアという個性的なブランド、その出会いは強烈であった。ほとんど一般路上で出逢うことのないランチアを訪ねて、愛好家のもとを訪ねたのだけれど、それぞれに深くランチアに思い入れていて、クルマ好きを自認しはじめたばかりのイノウエにしても別世界のような気さえしたものだ。なにしろランチア・フルヴィア・クーペにフラヴィア・スポルト、加えてランチア・ストラトスというような個性の塊のようなモデルばかりだったのだから。
 のちに、ランチア・デルタHFインテグラーレ、それもごく初期の「エヴォルツィオーネ」でもなんでもないモデルに乗ったとき、まさに目からウロコであった。グッとランチアが身近かに寄ってきてくれた気にもなった。以後、テーマのステーションワゴンとかテーマ8・32、イプシロンなど個性的で存在感のあるモデルがつづく。その前のランチア・ベータ・クーペ、モンテカルロも記憶に残る。
■ ランチア・フルヴィア・クーペHF/Lancia Fluvia coupe HF
*LANCIA CLASSIC*

  念願だったディーノ246GTを手に入れて間なしの頃、その卓越した走りに夢見心地だった頃である。ランチア・ストラトスHFを取材させてもらう機会があった。写真撮影を終え、「乗ってみてくださいよ。ディーノと較べてどうですか?」と、嬉しいお誘い。
 いや、速いと思っていたディーノよりももうひと回り速くてなにより俊敏。ディーノは大きなフェラーリとちがって体にぴったり「着る」感じで乗れるんだ、といったのはディーノを長く愛用しておられた故保富康午さんだった。それからすると、ストラトスはスポーツ・ウェアに着替えた感じ。とにかく軽さがヒシヒシ感じられ、それに吹け抜群のV6エンジンなのだから、なるほど、プロユースのラリイ・マシーンなのだと実感させられた。

 当時の「グループ4」のホモロゲーション取得のためにつくられたというストラトスHF「ストラダーレ」。「ストラダーレ」はストリート走行用モデルの意で、市販ストラトスを指すのだが、なにはともあれラリイでの戦闘力が重視され、わずか2180mmというショート・ホイールベース。2人分のキャノピイを残して、前後に大きく開くカウルのなかはエンジンやスペア・タイヤで一杯。わずかにリアに小さなラゲッジ・スペースがあっただけ。その分、大きく張り出したドアの内側にヘルメットが収納できるほどの幅のトレイが設けられていた。
 そんなひとつひとつが話題になって、ランチア・ストラトスHFはそのスタイリングともども注目度最高の1台になっている。生産台数も少なく、まさしくクルマ好きの永遠のアイドルのひとつになっている。

106)ランチア・フルヴィア・クーペHF

Lancia

ランチア

ランチアという個性的なブランド、その出会いは強烈であった。ほとんど一般路上で出逢うことのないランチアを訪ねて、愛好家のもとを訪ねたのだけれど、それぞれに深くランチアに思い入れていて、クルマ好きを自認しはじめたばかりのイノウエにしても別世界のような気さえしたものだ。なにしろランチア・フルヴィア・クーペにフラヴィア・スポルト、加えてランチア・ストラトスというような個性の塊のようなモデルばかりだったのだから。
 のちに、ランチア・デルタHFインテグラーレ、それもごく初期の「エヴォルツィオーネ」でもなんでもないモデルに乗ったとき、まさに目からウロコであった。グッとランチアが身近かに寄ってきてくれた気にもなった。以後、テーマのステーションワゴンとかテーマ8・32、イプシロンなど個性的で存在感のあるモデルがつづく。その前のランチア・ベータ・クーペ、モンテカルロも記憶に残る。
■ ランチア・フルヴィア・クーペHF/Lancia Fluvia coupe HF
*LANCIA CLASSIC*

 ランチア・フルヴィアは1963年に誕生した、ランチアの小型車シリーズ。ベルリーナ(サルーン)をベースにラリイ・フィールドで活躍(1972年にはワールド・チャンピオンシップを獲得)したフルヴィア・クーペ、ザガート製個性的スタイリングのフルヴィア・スポルトなどがラインアップされた。ランチアは1969年にフィアット傘下になってしまうので、純粋なランチアとして最後のシリーズということにもなる。
 それにしても、フルヴィア・スポルトよりもよほどスポーティな印象を与えるフルヴィア・クーペ。ベルリーナより150mm短縮された2330mmのホイールベースのスクウェアなボディはいかにも取り回しがよさそう。前後のオーヴァハングが短いのも、ラリイなどでは実に有効にちがいない。ラリイ仕様で決めたこのフルヴィア・クーペHFなど、実に小気味よい走りをみせてくれる。
 しかし、さすがはランチア。たとえば狭角V4気筒DOHCのエンジン、フラットなインテリアなど、独特のニュアンスをみせてくれる。いうまでもない、当時は少数派の前輪駆動(FWD)。これでWRCなどラリイ・フィールドにおいて、ミニやアルピーヌと闘い、ときにトロフィを獲得したりしたのだった。

105)ランボルギーニ・カウンタック LP400

Lumborghini

ランボルギーニ

保育社で「世界の名車」シリーズを企画したとき、日本に輸入されているブランド、国産のブランドをすべて採り上げる、というのが目標であった。もちろんランボルギーニも採り上げねばならなかったのだが、例の「ブーム」の折りに輸入元であった「シーサイド・モーター」が1980年に廃業して以来、1984年~ジャクスが名乗りを上げたところで、資料その他もままならず、フェラーリよりもさらに難しい題材であることが解った。
 にもかかわらず、ムックをまとめたのはそれだけ興味があったということだ。ちょうどディアブロが登場したときで、早速にイタリア取材に及び、フェラーリ社との対応のちがいに感激したのを憶えている。
■ ランボルギーニ・カウンタック LP400/Lumborghini Countach LP400
*LAMBORGHINI CLASSIC*

 もう「カウンタック」ではなくて、発音に近い「クンタッシ」と呼ぼうではないか。カウンタック・フリークの第一人者、盟友M嵐さんが提唱するのに賛同はするのだが、どうしてもまだ「カウンタック」の名前がある種の呪文のように離れていかない。
 先のP400系ミウラを進化させたモデルとして計画されたものの、産みの苦しみの末にようやくデビュウしたLP400にはじまるカウンタック。走らせて一番はLP5000、完成度という点では最終の「アニヴァーサリイ」などとそれぞれに存在感をみせるカウンタック・シリーズにあって初期のLP400は、シンプルな美しさという点で永遠の憧れの座を確保する。
 先のミウラは、エンジンを横置き搭載されていたこともあり、排気量拡大などのこれ以上のパワーアップが望めない。そこでエンジンを縦置きミドシップ搭載する新モデルとして計画されたのがカウンタックだった。もちろん、ライヴァルたるフェラーリ「BB」の登場を予期して、である。

 しかしながら、ランボルギーニ社は危機的な状況下にあった。生産はおろか、衝突試験用のプロトタイプもつくることができず、ショウに飾ったモデルがそのまま使われた、という逸話も残る。
 しかし、でき上がったカウンタックは天才ガンディーニのつくったプロトタイプに一番近く、美しさを湛えている。おもに資金的理由から、ほとんどミウラ時代そのままのエンジンを縦置きに搭載したハンディはあるけれど、ポップアップ・ドア、全体のウェッジ・シェイプ、リアのホイールアーチなどにカウンタックの特徴を備え、それでいてクリーンで美しいLP400は忘れられない。
 スーパーカーの頂点に君臨するカウンタック。個性的なガンディーニ・デザインの発露というものではあるまいか。

104)ランボルギーニ・ミウラS

Lumborghini

ランボルギーニ

保育社で「世界の名車」シリーズを企画したとき、日本に輸入されているブランド、国産のブランドをすべて採り上げる、というのが目標であった。もちろんランボルギーニも採り上げねばならなかったのだが、例の「ブーム」の折りに輸入元であった「シーサイド・モーター」が1980年に廃業して以来、1984年~ジャクスが名乗りを上げたところで、資料その他もままならず、フェラーリよりもさらに難しい題材であることが解った。
 にもかかわらず、ムックをまとめたのはそれだけ興味があったということだ。ちょうどディアブロが登場したときで、早速にイタリア取材に及び、フェラーリ社との対応のちがいに感激したのを憶えている。
■ ランボルギーニ・ミウラS/Lumborghini MIura S
*LAMBORGHINI CLASSIC*

 「スーパーカーの起源」、ランボルギーニ・ミウラこそ、スーパーカーを確立したモデルと信じて疑わない。並外れてスーパーなクルマ、つまり、初めて本格的なミドシップの超高性能車として1965年のトリノ・ショウにV12気筒DOHCエンジンを横置き搭載した鋼板シャシーを展示、人々の度肝を抜いたところにその原点がある。それは半年後のジュネーヴ・ショウでマルチェロ・ガンディーニによって描かれたダイナミックなボディを以って、ふたたび人々を驚愕に陥れたのだった。
 まったく新しいクルマの創造、すなわちスーパーカーの起源というわけである。
 まだ数えるほどしかわが国にランボルギーニが存在していなかった時代、幸運にも奇特なオーナーの好意によってミウラSを走らせることができた。ドアの開きかたこそのちのカウンタックのようなアイデンティティはないけれど、ミウラSのボディは、観察すればするほど独創性に溢れていた。エンジンがミドにあるおかげで、キャビンを残してそれぞれ大きく開く前後のフードなど、実によく考えられたレイアウトだと気付かされる。メカニズムの要求をスタイリングに反映してまとめる手腕はガンディーニの真骨頂というもの。そのアイディアを含めて「天才ガンディーニ」と呼ばれる所以だ。リアの壁に付けられたヘッドレスト、ポップアップ式のヘッドランプなども必要要件をうまくこなした一例。一方、それだけでなくヘッドランプ周りの飾りや切れ上がったウィンドウ後方のドアノブを含む飾りなど、意識的に付け加えられた個性もある。そうしてでき上がったミウラSは、並外れたインパクトを与えるのであった。

 エンジンをスタートさせた途端から、キャビンのすぐ背後でV12気筒のけたたましくも魅惑のサウンドが轟く。たとえば隣席との会話などできるはずもなく、ただただドライヴァは全神経をミウラに集中させられることになる。まさしく虜である。それは淀みない強烈な加速感に打ちのめされるような走りを味わい、ひと休みすべくクルマを停め、エンジンをストップさせて初めてわれに返る、といったような感覚。あとになって余韻が蘇って、そのスーパーさにつくづく感じ入るといったものであった。

103)ジャガーMk2(ジャガー340)

Jaguar

ジャガー

ジャガーは戦後間もなく送り出したジャガーXKシリーズ・スポーツカーの成功で、その基礎をつくり、われわれ世代には上質で英国的なサルーン、スポーツカー・ブランドとして認識されていた。ウッドと本革のインテリア、という言葉に象徴される英国車らしさは、ジャガーのテイストとも共通するものだ。
 ずいぶん前のことだが、ジャガーの工場と工場に併設されている博物館を見学したことがある。クラフツマンシップ、それこそレザーとウッドの使い方など、予想していた通りの上質のつくり方が解った。ジャガーXタイプを1週間にわたって駆り出し、英国取材のアシに使わせてもらったりもした。やはり英国でのジャガーは相応のステイタスがあり、誇りでもあることを感じた。やはりジャガーはなくなってもらっては困るブランドにちがいない。
■ ジャガーMk2/Jaguar Mk2
*JAGUAR CLASSIC*

 乗っていて「渋さ」の点で筆頭にあげたくなるひとつに「ジャガー・マーク2」がある。中央に寄ったヘッドランプ、それにジャガー・スポーツのそれに似たラジエータ・グリルをあしらうフロントから、丸やかなアウトラインを描くボディ、絞り込まれたテールエンドに至るまで、まさしく英国の古典的な優美な形に終始する。だからといって、その「ニセモノ」をつくり、それをまた有難がって所有するのには思わず眉をひそめてしまうのだが、裏を返せばそれだけひとつの「典型」として存在しつづけている、という証左でもある。
 上質な大柄サルーンを以って位置づけられていたジャガー・サルーンに、ひと回り小型のジャガー2.4サルーンが登場したのは1955年のこと。それは1959年にチェンジしてMk2になる。1967年にはふたたびチェンジされるのだがMk3とは呼ばれず単にジャガー240/340サルーンとなった。しかし、スタイリング的に共通する全部のモデルをジャガー「Mk2(マーク2)」サルーンと総称することも多い。

 さてさてジャガー「Mk2」のひとつとして、ジャガー340サルーンを撮影した。ベージュのボディカラーも英国的でしっとりとしていたが、全体のつくり、たとえばウイングの峰にあるサイドランプ上の小さなモールや後ドアの切り欠き部分の丸みなど、細かい部分のひとつひとつに「綺麗だなあ」と嘆息がつづいた。もちろんドアを開けば磨き上げられたウッドと本革のインテリア、その佇まいにすっかり虜になってしまうのだった

102)ジャガーXK120fhc

Jaguar

ジャガー

ジャガーは戦後間もなく送り出したジャガーXKシリーズ・スポーツカーの成功で、その基礎をつくり、われわれ世代には上質で英国的なサルーン、スポーツカー・ブランドとして認識されていた。ウッドと本革のインテリア、という言葉に象徴される英国車らしさは、ジャガーのテイストとも共通するものだ。
 ずいぶん前のことだが、ジャガーの工場と工場に併設されている博物館を見学したことがある。クラフツマンシップ、それこそレザーとウッドの使い方など、予想していた通りの上質のつくり方が解った。ジャガーXタイプを1週間にわたって駆り出し、英国取材のアシに使わせてもらったりもした。やはり英国でのジャガーは相応のステイタスがあり、誇りでもあることを感じた。やはりジャガーはなくなってもらっては困るブランドにちがいない。
■ ジャガーXK120fhc/Jaguar XK120 fhc
*JAGUAR CLASSIC*

 ジャガー・スポーツカーの原点、もちろん戦前のクラシックはあるのだが、趣味の対象としてみるとやはり戦後のジャガーXK120あたりからが現実的だ。ジャガーが今日までつづく名声を得るもとは、戦後いち早く高性能スポーツカーを生産し、米国市場で大きなヒットを得たことによる。その尖兵の役を果たしたのがジャガーXK120だ。
 ほとんどが4気筒、それも旧式なOHVというようななかに、直列6気筒DOHCエンジンを以って登場。最高速度120mph(190km/h+)を謳ったXK120のモデル名とともに大きな注目を集めた。ジャガーXK120のヒットを受けて、1954年にXK140、1957年にXK150と発展して、1960年代のジャガーEタイプに引き継がれるのだが、戦後ジャガー・スポーツの第一世代としてXKシリーズは忘れられない。
 当初、軽快なロードスターとしてデビュウしたXK120には、のちにクーペ・ボディのXK120fhc(フィクスト・ヘッド・クーペ)、耐候性などにも配慮したオープン・ボディのXK120dhc(ドロップ・ヘッド・クーペ)が加わった。すべてのモデルを採り上げるわけにいかないのなら、際立った存在としてXK120fhcがいい。たとえばMGAにも似たスタイリングのクーペが存在するが、オープン・ボディにヘルメットをそのまま固定したのではないか、というような後頭部の丸いスタイリングがひとつの時代を象徴するかのよう。

 この時代はしっかりとしたシャシーを持っており、思ったよりずっと高い着座姿勢でのドライヴィングも独特だ。エンジンは実用性に富み、低い回転数からさすがDOHCというべき高回転域まで淀みがない。垂直に立った大きなステアリング・ホイールを抱えるようにして走れば、味わい深い古典的スポーツカーが感じられる。
 インテリアはウッドが多用されており、雰囲気的にも満たされよう。

101)ジネッタG12

Ginetta

ジネッタ

英国車で魅力的なことのひとつに、われわれクルマ好きが思わず心和まされてしまうようなクルマがひっそりと息づいていることがある。たとえば、ジネッタのようなクルマはその最右翼というものだ。ウォークレット兄弟によって1950年代後半に形づくられたジネッタは、いくつかの名車を生み出している。
 基本的にはスーパー・セヴンのようなスパルタンでレーシイな性能を持ちつつ、無機質ではないちょっとクラシカルで好もしいボディをまとっているのが、ジネッタの特徴といえよう。もちろんサーキットに持ち込んでもいいし、眺めているだけでも嬉しくなるのがジネッタ。いわゆる「バックヤード・ビルダー」なのだが、それは、クルマ好きが自分たちの欲しいクルマを自分の家の裏庭でつくってしまうことに由来する。
 だから、われわれクルマ好きにとって魅力的でないわけがない、ということだ。われわれと同じクルマ好きがつくっているのだから、心和まされてしまうのは当たり前ともいえる。それこそがジネッタなどの真骨頂。楽しみのためのクルマとして考えたら、こんなクルマが存在していてくれるんだ、と嬉しくなってしまうほど。
■ ジネッタG12/Ginetta G12
*GINETTA CLASSIC*

 趣味というものはキリがない。だからこそ面白くもあり、のめり込むに足るという理由であるのだが、ジネッタG4のヒットがジネッタG12に進化したのは、まさしくそんな印象である。ジネッタG4はいうなれば尖った先端にある究極のスポーツカーのひとつといえるが、さらにその先を求めるなら大きくスペックを変更してでもジネッタG12に至るのだろうなあ、ということがクルマ好きならば容易に理解できたりする。
 まずレイアウトはミドシップ。より高度なレーシング性能を求めた結果、キャビン背後、ホイールベース内にエンジンを搭載し、重量バランスを理想に近づける。縦置きするエンジンもいっそう高性能で、たとえば「コスワース・チューン」190PSが580kgのボディに搭載されることを想像してみて欲しい。

 ボディ・スタイルはご覧の通り、ミニ・スーパーカーというようなスパルタンなもの。逆にいうならば、スーパーカーの類は素晴しいけれど、わが国の路上ではいかにも大柄に過ぎて、スポーツカー・フィールを得ることができない。そういう思いはこのジネッタG12がみごとに解消してくれる。もちろん美点とデメリットは裏表。まあ、タイトになったキャビンで、もう走りに徹するしかない、というような思いに駆られることもあるだろう。
 しかし「人馬一体」ならぬ「人車一体」、クルマと運転者とが協力し合って性能を引き出すという愉しみを味わってしまったら、もう元には戻れない。猛々しいエンジン・サウンドとともに快走する悦びは、まさしく別格というものだ。

100)ジネッタG4

Ginetta

ジネッタ

英国車で魅力的なことのひとつに、われわれクルマ好きが思わず心和まされてしまうようなクルマがひっそりと息づいていることがある。たとえば、ジネッタのようなクルマはその最右翼というものだ。ウォークレット兄弟によって1950年代後半に形づくられたジネッタは、いくつかの名車を生み出している。
 基本的にはスーパー・セヴンのようなスパルタンでレーシイな性能を持ちつつ、無機質ではないちょっとクラシカルで好もしいボディをまとっているのが、ジネッタの特徴といえよう。もちろんサーキットに持ち込んでもいいし、眺めているだけでも嬉しくなるのがジネッタ。いわゆる「バックヤード・ビルダー」なのだが、それは、クルマ好きが自分たちの欲しいクルマを自分の家の裏庭でつくってしまうことに由来する。
 だから、われわれクルマ好きにとって魅力的でないわけがない、ということだ。われわれと同じクルマ好きがつくっているのだから、心和まされてしまうのは当たり前ともいえる。それこそがジネッタなどの真骨頂。楽しみのためのクルマとして考えたら、こんなクルマが存在していてくれるんだ、と嬉しくなってしまうほど。
■ ジネッタG4/Ginetta G4
*GINETTA CLASSIC*

 ジネッタ・ブランドの中で一番のヒット作となったのがジネッタG4。1961年のデビュウ、その後10年に渡って500台をつくり出した、という。スーパー・セヴンのような鋼管フレームを持ち、フロントにエンジンを搭載、リアを駆動するコンヴェンショナルなレイアウト。ボディはFRPで形づくられるが、生産クウォリティは「バックヤード」の域を出ていてる。オープン2座が基本だが、デタッチャブルのハードトップ、さらにはクーペもつくられている。
 そもそもは1960年代のクラシカルなスポーツカーで、一時生産は中止されていたのだが、四半世紀を経て、それをほとんどそのままの形で再生産がはじめられている。つまり、旧き佳き時代のリアル・スポーツカーを求める声が高まり、その声に応えて嬉しいことにウォークレット兄弟がふたたび動きはじめたのである。

 ボディ・スタイルがいろいろ選べることとともに、エンジンも希望によってある程度自由が効くのも「バックヤード」の産物の特徴といえる。もともとがクルマ好きが自分のためにつくり出したところが原点だから、サーキットに持ち込むのか、リアル・スポーツカーとして公道でのみ楽しむのか、用途つまり自分の好みによって自由にできる、というわけだ。その自由度の高さは大きな美点にもなるだろう。
 幾度かステアリングを握らせてもらったが、まあ愉しい。スポーツカーとはこれほど愉しいものであったか、まさしく覚醒させてくれる。絶対的な性能でいったら、それはスーパーカーというようなものとは比較にならないだろうが、愉しさ、クルマを操る悦びという基準で話したら、遥かに大きな満足が得られる。その満足感は、クルマと運転者とが協力して得られる類のものである、ということも趣味の相棒としては美点以外のなにものではあるまい。まあ、「最後の皿」のひとつというものだ。

99)フォード・マスタング

Ford

フォード・マスタング

クルマの魅力は単に性能だとかスタイリングだけではない。フォード・マスタングなどはアメリカの文化そのもの、といった存在感を以って、ひとつの世界をつくり出している。つい先ごろ「50周年モデル」を送り出したことで解る通り、1964年にデビュウ。量産モデルのコンポーネンツを利用しつつ、スポーティさと個性とを盛り込んで雰囲気を楽しめるモデルに仕上げる。その手法から「フルチョイス・システム」と謳った販売法に至るまで、わが国産車に与えた影響も少なくない。それまで欧州の方を向いて進化してきた国産車メーカーが、一斉に米国市場にシフトを変えた。それはマスタングの成功が大きな影響を与えている。歴史を振り返ってそんな気がし、同時にフォード・マスタングのつくり出した「文化」に注目したくなったりする。
■ フォード・マスタング/Ford Mustang
*FORD CLASSIC*

 「旧き佳きアメリカン」というと、テイルフィンをそびえ立たせた1950年代の思い起こすのかもしれないが、そうした特別な時代はさておき、永遠に残しておきたいモデルのひとつとして、フォード・マスタングがある。
 1964年、マスタングは、フォードにとって初めての小型車といっていいファルコンをベースに、「スペシャルティ・カー」という新しいジャンルの主張とともに登場してきた。そう、わが国のトヨタ・セリカなどが大いに参考にした「お手本」にもなったものだ。「フルチョイス・システム」を用意し、エンジンや内装など好みに合わせて選べるようにしたのも、マスタングの手法。マスタングにはハードトップとともに軽快なコンヴァーティブル、のちにファストバックのクーペが追加された。いうまでもない、セリカLBを思い起こさせるクーペだ。

 初期の1966年式のフォード・マスタング・コンヴァーティブル289。289とは米国流、289cu.in.(立方インチ、約4.7L)のV8OHVユニット搭載であることを示している。3段のオートマティック・ギアボックスのセレクト・レヴァをはじめ、きらびやかなインテリア、ホワイト・リボンのタイヤにスポーク・ホイールなどアメリカン・テイストにすべてが包まれている。
 小型車とはいったものの、それは米国の標準というもので、2743mmホイールベース、ちゃんと後にもシートを備えたマスタングは格別の存在感。とてもボニイの感じではない。エンジンをスタートさせれば、ドゥロロロ、とアメリカンV8サウンドを轟かせて走る。まさしく佳き時代のアメリカンを象徴するようなマスタングであった。

98)フィアット・バルケッタ

Fiat

フィアット

イタリアの巨人といわれたフィアット。一時期はフェラーリもアルファ・ロメオもランチアもマセラティも……傘下に収め、ということはイタリアの自動車はほとんどすべてがフィアット、というような時代もあったほど。賢明なことに、それぞれのブランドのヴァリウを活かしつつ、フィアット自身は分を弁えているかのように、小型車、大衆車、量産上級車などをつくりつづけてきた。
じゃあフィアットはつまらないか、というとそうでもない。フィアット500、600、のちのちのパンダといった小型車はキャラクターに富んでいたし、アバルトの名を借りたフィアット124アバルトや131アバルトなど、はたまた小型スポーツのフィアットX1/9など忘れられないクルマをいくつも送り出している。
あまりにも普通だったから忘れてしまっている、そんなモデルもあって、大フィアットは捨て置けないブランドのひとつ。
■ フィアット・バルケッタ/Fiat Barchetta
*FIAT NEW*

 ユーノス・ロードスターのフォロワーとして、1995年に登場したのがフィアット・バルケッタ。バルケッタとは小舟の意味で、初期のフェラーリ166バルケッタなどで知られる。小さなオープンということで、それをそのままネイミングにしてしまった。
 基本的にはフィアット・プントのシャシーが用いられるが、ホイールベースを2275mmと短縮したおかげで、2シーターの軽快なオープンに仕上がっている。エンジンも直列4気筒1.8Lエンジンを横置き搭載するFWD。スタイリング的に同時期のクーペ・フィアットと相通じるものを感じたりするが、クーペの方がひと回り以上大きいし、クラスも上だ。
 全体的にクラシカルな、ということはオープン・スポーツカーの本来的な味わいを残すよう努力されたあともみられ、それこそ少し手のかかる趣味性のある実用車、といったまとまり。ソフトトップを畳んでオープンで走り出せば、コンパクトで軽快な走りが楽しめる。
 2002年に生産が終わって2年ほどして突如再登場するが、わずか数年でフェードアウト。その頃には、各国でオープン・スポーツカーが百花繚乱のようになっていたのだった。

97)フィアット850スパイダー

Fiat

フィアット

イタリアの巨人といわれたフィアット。一時期はフェラーリもアルファ・ロメオもランチアもマセラティも……傘下に収め、ということはイタリアの自動車はほとんどすべてがフィアット、というような時代もあったほど。賢明なことに、それぞれのブランドのヴァリウを活かしつつ、フィアット自身は分を弁えているかのように、小型車、大衆車、量産上級車などをつくりつづけてきた。
じゃあフィアットはつまらないか、というとそうでもない。フィアット500、600、のちのちのパンダといった小型車はキャラクターに富んでいたし、アバルトの名を借りたフィアット124アバルトや131アバルトなど、はたまた小型スポーツのフィアットX1/9など忘れられないクルマをいくつも送り出している。
あまりにも普通だったから忘れてしまっている、そんなモデルもあって、大フィアットは捨て置けないブランドのひとつ。
■ フィアット850スパイダー/Fiat 850 spider
*FIAT  CLASSIC*

 小さく軽量なスポーツカー。それもオープンだったりしたらなお素敵。そんな夢をそのまま実現したようなスパイダーがある。フィアット850スパイダーだ。旧き佳き1960年代のフィアットはフィアット600を中心に小型のフィアット500、少し大きなフィアット850というリア・エンジン車をラインアップしていた。そのフィアット850をベースにして、好もしいクーペ、スパイダーがラインアップされたのである。
 ファストバック・スタイリングのクーペもいいけれど、やはりオープン2シーターのフィアット850スパイダーは、いっそう愉しい存在といえる。とくにスタイリングは、若き日、カロッツェリア・ベルトーネ時代のジウジアーロの作で、シンプルなラインのなかにも、寝かせて取付けられたヘッドランプなどの特徴も込められていて、コンパクトながらもよくまとまった印象を与える。フィアット850ベースということで、リア・エンジンのままだが、チューニングは少し高められており、気持ちのいい走りが味わえる。エンジン・ルーム内の情景も、エグゾストはじめ佳き時代のスポーツカーらしさが漂う。
 デビュウ3年後の1968年にはマイナーチェンジが施され、エンジン排気量が少しアップされるが、同時に安全基準のために特徴的なヘッドランプが変更され、好みが分かれる。

96)フェラーリ・テスタロッサ

Ferrari

フェラーリ

クルマ世界のひとつの頂点のブランド。頂点だけにいろいろプラスもマイナスもあるのは当然として、純粋に憧れさせられる存在であるのはまちがいない。われわれが子供の頃にはあまりにも遠い存在で、馴染みもなにもなかったのだが、だんだん広く知られるようになっていまや高価で高性能なクルマの代名詞のようになっている。その過程をつぶさに体験できたのは幸いであった。どこまでも高嶺の花、永遠の憧れであるのはちがいない。逆にいうと、フェラーリのような憧れのクルマがなかったら、貯金する目標を失ってしまうヒトも出てくる、というものだ。
 「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
■ フェラーリ・テスタロッサ/Ferrari testarossa
*FERRARI CLASSIC*

 ひとつの時代をつくった、という意味でフェラーリ・テスタロッサは永遠に忘れることのできない1台といえる。時は1984年。まったく新しい形で見るものを驚かせてくれたテスタロッサだったが、メカニズムなどいろいろなことが解るにつれ、なるほどと納得でき、それをこの形にしたデザイン力にもう一度感心してしまう。オトコの趣味には、理屈の裏付けが大切、といういい例でもある。
 視覚的なチャーミング・ポイントはなにがといって、サイドにあけられた巨大なエア・インテーク。これはそもそも前作「BB」の反映だ、という。スーパーカーの雄、「BB(ベルリネッタ・ボクサー)」ことフェラーリ365GT4BBのシリーズは、とにかく走るためだけ、それも並外れてスーパーな走りを提供するためだけのクルマだった。速く走るためにいくつものことが犠牲にされ、それはそれで「オトコの美学」というような捉えられ方をしていた。それを否定するものではないが、一方で誰でも乗れて少しは実用的で安楽なことも要求されたのだ。具体的にはラゲッジ・スペース確保とキャビンの熱さ改善のため、2650mmに拡大されたホイールベースとともにラジエータがリア・ホイール前に移された。サイドのエアインテークは、これを逆手にとって凝らされたアイディアだったのだ。おかげでリアのトレッドが150mm近く大きくなったことも、堂々たるテスタロッサのスタイリングに貢献している。

 「テスタロッサ(赤い頭)」を実践した赤塗りヘッドの180°V12気筒エンジンをミドシップ搭載した性能も充分実用的で速く、ひと口でいえば完成度を高めた。かくしてフェラーリ・テスタロッサは、「ミニ・テスタロッサ」というべきフェラーリ348tシリーズをも生み出し、ひとつの時代をつくった。
 イノウエが個人的に興味深く思ったのは、Aピラーからにょっきりと生えたミラー。残念ながら初期モデルだけで終わってしまったのだが、フェラーリ・テスタロッサの妖艶さを象徴していたようで忘れられない。それを含め、「バブル」の前触れ、という印象も歴史を振り返ると納得できたりするのである。

95)シトロエン「プルリエール

Citroen

シトロエン

フランス車というといまでこそ、プジョーもルノーもシトロエンもしっかり認識されているし、逆にいうとほとんどその3ブランドに集約されてしまっている。そして結構広く浸透しているのだが、ひと昔前までは、フランス車はよほどの好事家のもの、という感があった。それは劣悪なわが国の環境(高温多湿、渋滞の多い道路など)のなかでは、当時のフランス車は住みにくかったし、だからか、なかなかフランス車をきっちり面倒みてくれるところも少なかった。いや、そうした環境にもかかわらず、フランス車は魅力的ではあった。かつてシトロエンCX、CX、DSと3台を経験し、どうしてフランス人はあんなに普段の生活に使いこなしているのだろう、とちょっとばかり嫉妬したイノウエ。もう一度シトロエンDSとの暮らしを、などと思わせるのだから、困ったものである。
■ シトロエン「プルリエール」/Citroen C3 ‘pluriel’
*CITROEN  NEW*

 「プルリエール」とは複数のとか多彩な、というような意味。もともとはシトロエンの小型車、C3をベースに最終的には4座のフルオープンにまでアレインジメントできるようにしたモデル。「プルリエール」のネイミングには、いかにも「これ1台でいろいろ遊べますよ」という主張が込められている。
 キャンヴァス地のルーフ部分が畳み込めるまでは想像できるとして、凄いのはその先だ。畳み込んだルーフ地もろとも、ガラスのリア・ウィンドウ一体がそっくりラゲッジ・スペースに落とし込まれる。ちょうどシトロエン2CVのリアも取り外したような形で、これでも充分開放感が味わえるのだが、さらに左右のルーフレールも外せるのだ。外したルーフには専用のラックまで用意される(まるでメルセデスSLの「パゴダ・ルーフ」のよう)が、残念ながら車内に置き場がなくガレージに置いてくるしかない。
 もうひとつ、「プルリエール」のボディ・カラーも素敵だ。ルーフ・レールをシルヴァにしたボディには、ブルウ・パナマやオレンジ・エーリアルなど、シックにも派手にも楽しめる色を用意。レッドも微妙なニュアンスが解る人には刺激的だ。
 しかし、それにしても楽しみにためにここまで頑張るか。その意気に感じて趣味兼実用にしたくなる。

94)シトロエン2CV

Citroen

シトロエン

フランス車というといまでこそ、プジョーもルノーもシトロエンもしっかり認識されているし、逆にいうとほとんどその3ブランドに集約されてしまっている。そして結構広く浸透しているのだが、ひと昔前までは、フランス車はよほどの好事家のもの、という感があった。それは劣悪なわが国の環境(高温多湿、渋滞の多い道路など)のなかでは、当時のフランス車は住みにくかったし、だからか、なかなかフランス車をきっちり面倒みてくれるところも少なかった。いや、そうした環境にもかかわらず、フランス車は魅力的ではあった。かつてシトロエンCX、CX、DSと3台を経験し、どうしてフランス人はあんなに普段の生活に使いこなしているのだろう、とちょっとばかり嫉妬したイノウエ。もう一度シトロエンDSとの暮らしを、などと思わせるのだから、困ったものである。
■ シトロエン2CV/Citroen 2CV
*CITROEN CLASSIC*

 英国ミニや伊国フィアット500、はたまた独国VWビートルと並んで、フランスを代表する国民車とされるシトロエン2CV。いまになって振り返ってみると、このなかでもひと際「文化」を感じさせるのがシトロエン2CVであった。クルマとして発想されたほかの3台に対して、2CVは「のりもの」というのが発想の原点であったような。
 イノウエにとってほとんど初の海外というような昔むかし、ミニを借りてスペインの山道を走った。そんな時、多くのシトロエン2CVと遭遇した。フルゴネットも多かった。スペインでノックダウン生産された2CVは、まだ少なからぬ数が人々の足として使われていたのだ。クイックなステアリング、小さなタイヤを踏ん張って小気味よく走るミニに対して、外側にひっくり返るのではないかというほどロールしながらも、それでも結構なスピードでコーナーを抜けていくシトロエン2CV。また、いくつかの場所で2CVの廃車体に遭遇したりもした。スペインという牧歌的な国、そこで暮らす2CVは似合っていて、クルマというより道具として生活に入り込んでいる感じが素敵だった。

 翻って、わが国でも幾度かシトロエン2CVを取材させてもらった。声優の大家、M岡さんに伺った「わが家における一点豪華主義のシンボルとして2CVを買ったんだ」ということば、氏の生活に密着している2CVを拝見して心和んだことを憶えている。
 実際に数日間をシトロエン2CVで暮らさせてもらったこともある。決して急がないクルマ生活。2CVの周辺には独自の時間が流れているような気がした。周りのクルマも見え方が変わってくる。
 渋いカラーリングのシトロエン2CV、それはグレイ系のチャールストンでもいいなあ、いまだにちょっと一緒に生活してみたくなる1台だ。

93)シヴォレー・コルヴェット

Chevrolet

シヴォレイ・コルヴェット

趣味人にとって、アメリカ車はひとつ別世界のようなところがある。基本的に大量生産を旨として発展してきた米国車は、趣味的にみて惹かれる要素がなかなか見出せなかったりする。桁違いの排気量でパワーを得る「無差別級」というのも馴染まない。
だが、もちろん例外もある。コルヴェットはその最たるもののひとつ。1950年代に誕生し、時代とともに姿かたちを変えつつも、つねに有り余るパワーの豪快なスポーツ・モデルとして位置づけられている。初期のコルヴェットは、いかにもアメリカンといったおおらかさのなかにあったが、しだいに欧州風のテイストも身につけ、ファン層を拡大している印象もある。
とはいえ、やはりアメリカン。2人の乗員のためには大きすぎるほどのスペースとパワーを持って、ひとつの世界をつくり出している。
■ シヴォレー・コルヴェット/Chevrolet Corvette
*CHEVROLET  CLASSIC*

 米国で随一といっていい、スポーツカー・テイストを保ちつづけてきた伝統のモデル。1953年に発表された初代C1系コルヴェットから数えて、2013年に発表されたC7系まで、姿かたちは変えつつも伝統的な名前はずっと保たれている。大柄なボディに大トルクのエンジンを搭載し、ただただ豪快に走る。いかにも大陸的ではあるけれど、それはそれで魅力に充ち満ちている。
 数あるコルヴェットのなかから採り上げるのは、五代目に当たるC5系。いかにもアメリカン、という味覚が色濃く残っているモデルだ。全長4.5m超、その半分近くあるようなロング・ノーズ、グラマラスなボディはFRPで形づくられ、ダイナミックなスタイリングを実現している。2655mmのホイールベースのフロントミドにV8アルミ・エンジン、リアにギアボックスをレイアウトしたトランスアクスルが導入されている。5.7Lという大排気量で350PSという強烈なパワーを発揮する。
 こうしたスペックを繰っていくと、アメリカンもずいぶん欧州風になっているなあ、という印象を受けたりするが、それでも他を圧倒するパワー、スタイリングで存在感に不足はない。コルヴェットには変わりないが、このC5系を境に少しテイストを変えている、そんな印象を受けた。

92)ケイターハム・スーパー・セヴン

Caterham

ケイターハム

ケイタハムはもともとロータスの販売店を営んでいたグラハム・ニアーンが、ロータス・セヴンの生産中止を訊いて、その製造権をジグなどとともに買い取り、ケイターハム・ブランドで送り出したところにはじまる。もともとロータス信者だったニアーンのこと、当初こそFRPボディの「S4」セヴンを再生産していたのだが、すぐに人気の「S3」ボディに変更してヒットした。
友人Kがロータス時代のスーパー・セヴンを購入した。学生時代からラリイで遊んでいた彼は、会社勤めがはじまると、どうにも体がなまってしかたなかったようだ。で、手にしたのがスーパー・セヴン。なるほど、チューニングしたマシーンに最も近いひとつ、というものかもしれない。乗ってみてよと促され高速を走ったりしたのだが、隣りに乗ったカミサンのポニイテールが前方になびくのに驚いた、セヴンの初インプレッションだった。
■ ケイターハム・スーパー・セヴン/Caterham Super Seven
*CATERHAM  CLASSIC*

 スーパー・セヴン」の名は、クルマ好きにとってひとつの頂点を表わす呪文のようでもある。なにしろスパルタン。走る愉しみ以外のなにも持たない、だから波長が合えば逆に虜になって離れられないセヴン乗りを生み出すことになる。しかし、注意しなければならないのは、スーパー・セヴンにはその先がない、いうなれば「最後の皿」だということ。それはメーカー自身も感じていることのようで、「BDR」モデルや「JPE」モデルなど、これぞ究極と思われる高性能モデルが次々に登場させてきて、どこまでいってしまうのだろうと思わせたりした。軽量命のスーパー・セヴンは。初期のベイシック「ケント・ユニット」搭載車でも充分以上に速くてスリリングだ。

 ロータス社の最初の成功作、ロータス・セヴンが1970年代に生産中止になったとき、ロータス社のディーラーのひとつであったケイターハムが、生産権、生産治具などを譲り受けケイターハム・セヴンとして生産を開始。ロータス時代の最終モデルではなく、もう一世代前の「シリーズ3」にしたところから人気は定着した。
 当初はエンジンもロータス製を使用していたが、生産中止となってからは「ケント・ユニット」をベースに、もともとがシンプルでキット状態で販売されていた自由度を遺憾なく発揮、各種チューニングした高性能エンジンを選んで搭載した。最近では日本のスズキの「軽」エンジン搭載車もつくられるほど。
 いずれにせよシングル・パーパスのスーパー・セヴンは、走らせることを愉しむクルマ好きが存在する限り、永遠のスーパースターでありつづけよう。

91)ビィ・エム・ダヴリュ M1/BMW M1

BMW

BMW

BMWは独特のシャープな味わいで、今や泣く子も黙ってしまうような一流ブランドになっている。みんながもて囃すものには、どことなく冷めた目を向けてしまうことが多いが、いくつかの熱狂させられるモデルが存在するのは見逃せまい。クルマ好き目線でいうと、かつての「02」シリーズや「CS」など身近かな憧れモデルの時代、それよりも前の最上級のスポーツと小型車の時代など、時代時代によってBMWは別のブランドのような印象を受ける。
1980年代以降、確かな方向性が定まったかのように、技術力とともにめきめきとヴァリエイションを拡大。少しばかり遠くへ行ってしまったような気がしなくもないが、それは「よくできた」完成形に対する無力感みたいなものか。それでもMシリーズなど、正統派スポーツには惹かれるなあ。
■ BMW ビィ・エム・ダヴリュ M1/BMW M1
*BMW CLASSIC*

 BMWブランドのスーパーカー、BMW M1はいろいろな話題のヌシである。1970年代半ばにBMWモータースポーツ社がポルシェの牙城に喰い込むことを目的に高性能レースカーとして企画したのがそもそものはじまり。そうそう、イノウエの持っているBMW M1のプラ模型は「ランボルギーニ☆BMW」と箱に描かれている。BMWはランボルギーニ社と提携、ミドシップのシャシー周りの設計から生産までを委託し、ボディもジウジアーロ率いるイタル・デザインに依頼したのだ。しかし、当時のランボルギーニ社は業績不振で自分たちのニュウモデル、カウンタックの生産もままならない状態。イタリア的遅延に業を煮やしたBMWは、最終的に提携を解消し、独自のティームで生産に移した、といういきさつがある。先述のプラ模型はその完成を見越してつくられたのだろう。いまでは、「アウディ☆ランボルギーニ」なのだから面白い。

 結局、当初の目的であるレース参戦は叶わず、ワンメイク・レースで走るなどにとどまり、むしろ、スーパーカーとしての注目を浴びることになったのだった。直列6気筒DOHC3.5Lエンジンは、イタリアン・スーパーカーのV12気筒からすれば物足りないようにみえるが、もともとがトゥーリングカー・レース用という素性は侮りがたく、走りは一級品だ。
 実務的で完成度の高い印象のボディはFRP製で、フロントのグリルとリアの左右に取付けられたBMWのエンブレムが、ブランドを主張する。500台足らずが生産されただけで終わった。

90)ビィ・エム・ダヴリュ 3.0CSi/BMW3.0CSi

BMW

BMW

BMWは独特のシャープな味わいで、今や泣く子も黙ってしまうような一流ブランドになっている。みんながもて囃すものには、どことなく冷めた目を向けてしまうことが多いが、いくつかの熱狂させられるモデルが存在するのは見逃せまい。クルマ好き目線でいうと、かつての「02」シリーズや「CS」など身近かな憧れモデルの時代、それよりも前の最上級のスポーツと小型車の時代など、時代時代によってBMWは別のブランドのような印象を受ける。
1980年代以降、確かな方向性が定まったかのように、技術力とともにめきめきとヴァリエイションを拡大。少しばかり遠くへ行ってしまったような気がしなくもないが、それは「よくできた」完成形に対する無力感みたいなものか。それでもMシリーズなど、正統派スポーツには惹かれるなあ。
■ BMW ビィ・エム・ダヴリュ 3.0CSi/BMW3.0CSi
*BMW  CLASSIC*

 いまでは各レインジにクーペやらオープンやらが揃えられて、その存在感も薄れてしまっているけれど、佳き時代、BMWのつくり出すクーペ・モデルは格別の味わいがあった。それは、1965年に発表されたBMW2000C/2000CSに端を発し、2.5CS→2800CS→3.0CSと発展していくのだが、その最終版のBMW3.0CSには燃料噴射装置を導入した3.0CSiがラインアップされていた。
 その燃料噴射装置は当時のBMW2002tiiやBMW2002ターボの使っていた機械式とは異なる、ボッシュ社製の電子制御のもので、当時はまだ話題になるほど最新技術のひとつであった。エンジンは直列6気筒SOHCで、先にデビュウしたBMW上級サルーンからコンヴァートされたものだ。そのことからも解るように実用性も備えた上質なスポーティ・クーペというようなシリーズであった。インテリアや全体の雰囲気まで、それは統一されている。

 魅力のポイントはそのクリーンで美しいスタイリング。最初のBMW2000Cこそ個性の強いものであったが、6気筒エンジンを導入してBMW2.5CSにチェンジされたとき、フェイスリフトが行なわれて個性よりも美しさでまとめられた。グラス・エリアの大きいクリーンな印象は、こののちもE24系BMW6シリーズに引継がれた。ドイツものは最新のものが一番、といわれはするけれど、ちょっとクラシカルな一連のBMWクーペはちょっと捨て置けない。

89)モーリス1100

Morris

BMC

BMCというのは旧き佳き1950〜60年代にあった英国ブリティッシュ・モーター・コーポレイションのこと。それまで多くのブランドが割拠していた英国自動車産業が、押寄せてきた米国資本などに対抗するために、大同団結してできたもの。二大大手だったオースティン社とモーリス(ナッフィールド社)が合併。ナッフィールド社に属していたMGやウーズレイ、ライレイなども含め、多くのブランドがすべてBMCから生み出されることになった。
その後も1966年にジャガーを加えてBMH(ブリティッシュ・モーター・ホールディング)、さらに1968年にはレイランド・グループとも一体化してBLMC(ブリティッシュ・レイランド社)になり、懐かしいブランドは次々にフェードアウトしてしまたのだった。
■ モーリス1100/Morris 1100
*MORRIS CLASSIC*

  「ミニはオースティン生まれだが、ADO16はモーリスの血統なんだ」
 骨の髄から英国車党の大先輩はタバコをくゆらせながらイノウエに講釈してくれたものだ。1960年代の英国自動車産業はちょっとした混乱のなかにあった。いくつものブランドがひとつの傘の下に収まり、「バッジ・エンジニアリング」と呼ばれる手法でいくつもの同型/ブランドちがいがつくられた。
 ご存知、英国ミニもオースティン、モーリスのふたつのブランドでスタートしたし、そのひとつ上級モデルとしてつくられたADO16シリーズは、モーリス、オースティンだけでなくライレイ、ウーズレイ、MG、ヴァンデン・プラと実に6ブランドもがつくり分けられていた。1962年から1974年まで、優に200万台を超える数つくられ、ミニと並んでひとつの英国らしさの象徴のようなADO16。わが国ではヴァンデン・プラが特別人気というようなところがあるが、どれもがそれぞれのブランドの特徴をうまく演出していて、興味深いものであった。
 そのベイシックに拘ってモーリス1100を採り上げよう。シンプルな横バーのグリル、ふたつの小インディケイター組込みの横長メーター1個だけのメーター周りなどシンプルに徹した結果、ヴァンデン・プラの2/3ほどのプライス・タグであった。それでも、「ハイドラスティック」と呼ばれる素晴らしい乗り心地の足周り、ルーミイでエレガントなスタイリング(ピニンファリーナ・デザインといわれる)など、当時の小型車にして見るべきところの多い、忘れられない存在である。

88)オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰ

Austin-Healey

オースティン・ヒーリー

ラリイなどで活躍していた根っからのスポーツカー好きのヒーリーさんが1952年のロンドン・モーターショウに展示した「ヒーリー・ハンドレッド」。オースティンのコンポーネンツを使ってつくり上げたそのスポーツカーは結構な注目を浴びていた。その人垣のなかからひとりの紳士が進み出て、手を差し伸べてきた。「よし、私のところでこれをつくろう!」その紳士こそオースティンのボス、レオナルド卿。「オースティン・ハンドレッド」のエンブレムはその日のうちに「オースティン・ヒーリー」に変えられ、オースティン;ヒーリー100として生産、販売に至る、というオースティン・ヒーリーのはじまりの「物語」は幾度となく語られてきた。イノウエもヒーリーさんの子息であるジェフリイさんから直接伺った真実とともに(「オースティン・ヒーリー、英国の愉しみ」草思社)紹介した。
 まさしく、ヒーリーさんのヴェンチャー企業が成功した、ということか。オースティン・ヒーリーというブランドは、「カニ目」にはじまるスプライトと「100」の後継「ビッグ・ヒーリー」とで華麗な15年ほどの歴史を刻んだのだった。
■ オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰ/Austin-Healey Sprite Mk-Ⅰ
*AUSTIN-HEALEY  CLASSIC*

 オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰと長い名前だが「カニ目」「frog-eyes」で通じてしまう。イノウエも長く愛用している1台だが、そもそも「カニ目」を選択しじっさいに手に入れるにはいくつもの理由があった。長く愛用するには心酔するような理論的裏付けや物語が必要、というわけで、その選択理由はそのまま趣味性の高さを表わすことにもなる。
 先の「ビッグ・ヒーリー」の成功を受けて、もっと小型で安価なスポーツカーをつくれないか、という話がヒーリー父子に持ちかけられた。もちろん父子にとって嬉しい仕事。さっそく、オースティンのエンジンを使い、モーリスのステアリング周りを利用して、という風に手持ちの量産パーツを利用しながら形づくられていった。
 ボディ、シャシー周りはヒーリー父子の腕の発揮しどころだった。結果的に、初めてのモノコック・シャシーのオープンカーということになった。もちろん軽量化、コストダウンのための採用だ。剛性を保つためにトランク(英国流にいうとブーツ)の開口部を省略するなど、それはそのまま「カニ目」の特徴になった。ヘッドランプも同様。小さなボディのどこに組込んでも法規で定められたヘッドランプの高さに足りない。ボンネットからポッコリ飛び出した「カニ目」は必要に迫られての採用だった。

 そんなひとつひとつに納得していくことで、所有する大きな原動力が生まれてくるというものだ。安価だけれども、スポーツカーの味覚を備えた「カニ目」は、大きなヒットとなった。「カニ目」によってスポーツカーの愉しみを知った若者が少なくない、などといわれるとその愉しみを是非とも味わってみたくなる。そんな気持ちで入手した「カニ目」は、飽きることなくわが家に棲みつづけている、というわけだ。
 しかし、大ヒットは災いをももたらす。大きなマーケットを感じた大BMC(オースティンを含む英国随一の自動車メーカー)は、後継車を自らの社内でつくり、しかもオースティン・ヒーリー・スプライトと「バッジ・エンジニアリング(双児車)」でMGミジェットをラインアップするのだ。まさしく大企業の論理。結果的にヒーリー父子とも訣別という当然の結果に至るのだった。

87)オースティン・ヒーリー100

Austin-Healey

オースティン・ヒーリー

ラリイなどで活躍していた根っからのスポーツカー好きのヒーリーさんが1952年のロンドン・モーターショウに展示した「ヒーリー・ハンドレッド」。オースティンのコンポーネンツを使ってつくり上げたそのスポーツカーは結構な注目を浴びていた。その人垣のなかからひとりの紳士が進み出て、手を差し伸べてきた。「よし、私のところでこれをつくろう!」その紳士こそオースティンのボス、レオナルド卿。「オースティン・ハンドレッド」のエンブレムはその日のうちに「オースティン・ヒーリー」に変えられ、オースティン;ヒーリー100として生産、販売に至る、というオースティン・ヒーリーのはじまりの「物語」は幾度となく語られてきた。イノウエもヒーリーさんの子息であるジェフリイさんから直接伺った真実とともに(「オースティン・ヒーリー、英国の愉しみ」草思社)紹介した。
 まさしく、ヒーリーさんのヴェンチャー企業が成功した、ということか。オースティン・ヒーリーというブランドは、「カニ目」にはじまるスプライトと「100」の後継「ビッグ・ヒーリー」とで華麗な15年ほどの歴史を刻んだのだった。
■ オースティン・ヒーリー100/Austin-Healey 100
*AUSTIN-HEALEY  CLASSIC*

 「カニ目」のスプライトは、ヒーリー父子の傑作のひとつというものだが、最大の作品というべきは「ビッグ・ヒーリー」の愛称を持つ一連のスポーツカーだろう。エンジンをはじめとするオースティンの量産部品を使い、独自のボディ/シャシーを使ったスポーツカーを展示したのが1952年のロンドン・ショウ。その会場に現われたオースティン社のボスがヒーリーさんのもとにやって来て「これをウチでつくろう」と握手したところから「オースティン・ヒーリー」ブランドが誕生したという逸話は有名だ。

 そうしてでき上がったのがオースティン・ヒーリー100。スポーツカー乗りだったヒーリーさんがつくったのだから、テイストは文句なし。たとえばフロントのウインドスクリーンが倒せるなどという、実際にクルマ好きならではのアイディアも携えて、なかなかのヒット作となった。とくに北米での人気は高く、初期の直列4気筒は1956年から6気筒に換装してオースティン・ヒーリー100/6に、さらに2.9Lに拡大してオースティン・ヒーリー3000となる。4気筒の時代にもレーシイなオースティン・ヒーリー100Sや軽度のテューニングアップをした100Mを次々加えるなど、話題性にも事欠かない。
 「ビッグ・ヒーリー」というだけあって、ダイナミックな走り振りをみせるオースティン・ヒーリー100。英国紳士を気取れる魅力ある1台だ。

86)アウディTTロードスター

Audi

アウディ

いまから20年ほど前になるだろうか。ドイツにクルマ好きや専門ショップなどを取材しにいった。その当時の日本市場では、メルセデスとBMWとが人気でしのぎを削って、その少しあとをアウディが追いかけている、というような構図であった。4WDと前輪駆動に特化したブランド、というイメージも強かった。それが、ドイツ本国ではVWは別として、メルセデス・ベンツ、BMWとアウディは人気が完全に拮抗する三つ巴の存在だと訊いて、認識を改めさせられた。クルマ好きが挙ってアウディ、それも「アヴァント」のディーゼル・ターボを個性的にドレスアップして楽しむ、というのが流行のようになっていたのを思い出す。
 趣味としてのアウディ、アウディTTやアウディR8という解りやすい憧れモデルをはじめとして、いまを楽しむ進化をつづけるブランドのようだ。
■ アウディTTロードスター/Audi TT roadster
*AUDI NEW*

 実際の販売台数はさほどでなかったとしても、ブランド内にスポーティ・モデルを持つということは、全体のイメージアップにとって重要なことであるらしい。アウディにTTモデルが加えられたのは1998年のことであった。アウディA3のプラットフォーム・シャシーを用い、2+2のクーペ・ボディに変身させたもので、登場当初こそ高速走行安定性などでちょっとケチがついたけれど、その2年後に追加されたロードスターが潔くて素敵だ。
 なにがといってシンプルかつクリーンなスタイリングがいい。それに、アウディ共通の大きな美点だと思うのだが、ときとして実にしっとりと素敵なボディカラーが設定されている。青味の入ったグレイに「野球のグローヴの色」などという遊びココロのある組み合わせは、思わず他にはない個性を感じてニコニコしたりする。

 初期のモデルは1.8L+ターボ・チャージャというパワー・ユニット。普通のFWDモデルは180PS(4WDのクワトロには225PS)というものだが、コンパクトなボディのロードスターにとって不足はない。飛び抜けたインパクトこそない代わりに、堅実で気持ちのいい走りを提供してくれる。
 初代の8N系は2006年に二代目8J系、さらについ先頃三代目にチェンジされたが、初代ロードスターで趣味を気取るのがいいなあ。

85)アウディ・クワトロ

Audi

アウディ

いまから20年ほど前になるだろうか。ドイツにクルマ好きや専門ショップなどを取材しにいった。その当時の日本市場では、メルセデスとBMWとが人気でしのぎを削って、その少しあとをアウディが追いかけている、というような構図であった。4WDと前輪駆動に特化したブランド、というイメージも強かった。それが、ドイツ本国ではVWは別として、メルセデス・ベンツ、BMWとアウディは人気が完全に拮抗する三つ巴の存在だと訊いて、認識を改めさせられた。クルマ好きが挙ってアウディ、それも「アヴァント」のディーゼル・ターボを個性的にドレスアップして楽しむ、というのが流行のようになっていたのを思い出す。
 趣味としてのアウディ、アウディTTやアウディR8という解りやすい憧れモデルをはじめとして、いまを楽しむ進化をつづけるブランドのようだ。
■ アウディ・クワトロ/Audi Quattro
*AUDI  CLASSIC*

 いまでこそ、ほとんどのモデルにフルタイム4WDが用意されて、珍しくもなんともなくなってしまったが、それまでラフロード走行専用と思われていた4WDを高性能モデルに持ち込んだ功労者として、アウディの存在は忘れられない。すなわち、悪路や雪道走破用に、路面に合わせて2WDと4WDを切り替えてつかう、いわゆるジープ・タイプのパートタイム4WDが主流だったところに、高性能パワーを確実に余すことなく路面に伝えるという目的で4WDのスポーツ・モデルをつくり出したのだ。
グループBモデル「スポーツ・クワトロ」の名で1985年からラリイで活躍したことでも知られるが、それより前から市販モデルとして、アウディ・クワトロが登場していた。デビュウは1980年だ。

 フルタイム4WDというだけでなく、当時のアウディはいくつもの特徴的メカニズムの持ち主であった。まず、早くから前輪駆動(FWD)を採用していたが、ミニ以来多くの前輪駆動車がエンジン横置きだったのに対し、アウディは縦置きを固守した。アウディ・クワトロもその例に洩れず、しかも直列5気筒という変わり種。最終的にはDOHC20ヴァルヴが導入されるが、初期モデルはSOHC2.1L、インタークーラー+ターボ・チャージャで200PS(日本仕様は160PSだった)というもの。5段ギアボックス直後に機械式のセンター・デフを備え、四輪にパワーが伝えられる。
ボディ周りは当時のアウディ・クーペで、ブリスター・フェンダなどがその素性を暗示する。シャシーはアウディ80用、サスペンションは前後ともアウディ200用のフロントにつかわれるストラット式。アウディの持てるものを総動員したような印象があり、ひとつの時代を象徴しその後のジャンピング・ボードとなったようなアウディ・クワトロなのであった。

84)アルピーヌV6ターボ

Alpine

アルピーヌ

フランスのリアル・スポーツカー、アルピーヌ。その代表たるA110ベルリネットの艶やかなスタイリングは、有無をいわせぬ魅力を湛えている。嬉しいことに、アルピーヌの生みの親であるジャン・レデレさんにインタヴュウさせていただいたり、工場見学をさせていただいたりして、「クルマ好き」のつくったブランドに注がれた情熱の大きさ、また最終的には大企業に呑み込まれてしまう悔しさなど知ることができた。レース会場でカロッツェリア・ミケロッティのボス、ジョヴァンニ・ミケロッティと出逢った話など、当時のクルマ世界についても興味深い話を訊かせてもらえた。
 1960年代を頂点に、まさしく佳き時代のクルマの真ん中に存在する。後年はルノーの一ブランドとなるが、たとえばルノー・スポール・スピダーなど、アルピーヌあっての産物だった。
■ アルピーヌV6ターボ/Alpine V6 turbo
*ALPINE  CLASSIC*

 アルピーヌというと趣味的には「A110」シリーズにのみ集中してしまったかのような印象がある。それは1970年代に入ってルノーがアルピーヌを傘下に収めるとともに、1モデル名としてアルピーヌの名を使用するようになって、あの、スポーツ性能をなによりも優先してきた本来のアルピーヌの精神が失われたことと無縁ではあるまい。それはしっかり念頭においておくとしても、のちに登場してくるアルピーヌはそれはそれで魅力的な存在である。
 アルピーヌA110シリーズの後継とされるA310シリーズが登場したのは1971年のこと。それは前衛的スタイリングで、あまりにもの変貌振りにかつてのアルピーヌ好きが一気に醒めてしまったのだった。その後、1976年にV6エンジンを搭載されたA310V6が登場。スタイリングにも手が入れられたアルピーヌV6GTが1985年に発表されるに至って、ようやく新たな別のモデルという思い切りができたような経緯がある。

 いつだったか、途中の変化を辿ることなしに、いきなりアルピーヌV6ターボを取材する機会を得た。数日間与えられ、写真を撮ったりもちろん試乗して結構な時間を過ごした。それと前後して、街中でアルピーヌV6GTやV6ターボを見掛けることも増えた。なかなか洒落たスタイリングで個性的なライフスタイルが感じ取れるようなオーナーにも出遇って、かつてのA110シリーズとはちがう魅力の持ち主、と強く実感したのだった。アルピーヌV6はひと口でいえばエキゾティックなスタイリングのよくできた高性能GT。ボディの軽さに、かつての血統が少し感じられたりするのもいい感じ、であった。
 1991年にマイナーチェンジしてアルピーヌA610を名乗る。それから類推するに、A310V6がA410に、アルピーヌV6がA510に相当するわけで、1990年代中盤にA610がフェードアウトしたことで、アルピーヌの名は消滅したのだった。

83)アルファ・ロメオ アルファ156

Alfa-romeo

アルファ・ロメオ

イタリア車が面白い、そのきっかけはアルファ・ロメオだったろうか。1960年代までのクルマ趣味において、アルファ・ロメオはイタリアンの主流であった。五感にダイレクトなスタイリング、サウンド、走り振りなど、誰が見ても格好よかったし馴染めた。周囲にアルフィスタが多く居たこともあって、身近かではあったが所有するまでにはいたらなかった。
 それにしても、アルファ・ロメオは多彩だ。クーペ・ボディは時代時代でどれもがスタイリッシュだったし、それにスペシャル・ボディというべきカロッツェリアメイドの「スペチアーレ」モデルが加わる。スパイダーも同様。持てることならミニカーのごとくに時代ごとにそろえたくなる。それだけでなく「ベルリーナ」、サルーン・ボディがこれまたなかなかの個性派揃い。
 ジゥリア・スプリントをはじめとして、いまでも街ですれ違うと「いいなあ」と思わせるアルファ・ロメオは少なくないし、アルファ156をはじめとする一連のモダンカーもひと味ちがうクルマ生活を与えてくれる。
■ アルファ・ロメオ アルファ156/Alfa-Romeo alfa156
*ALPHA-ROMEO CLASSIC*

 まだクラシックというにはほど遠いが、アルファ156はひとつ記憶にとどめておくべき存在といえる。たとえばジゥリア・スーパーに代表されるように、アルファ・ロメオはベルリーナ(サルーン)にも個性的で魅力あるモデルが少なくない。佳き時代には、とにかくパワーユニットはみんなDOHCだったのだから、勢いちょっとスーパーな性能の4ドアや、ときに商用車までが存在して、クルマ好きにの注目を集めていたのである。
 そういうなかのひとつとしてアルファ156だ。しばらく低迷が続いていたアルファ・ロメオ社がフィアット傘下になり、1987年に発表したアルファ164でふたたび息を吹き返しつつあったときに、一気に挽回し大きなヒットとなったのがアルファ156だった。

 それまで小型車レインジはアルファ75、アルファ155と四角いモデルがつづいていたときに、アルファ156はそれとは対照的なスタイリングで登場してきた。やはりアルファ・ロメオは色っぽい形でなければ、そう再認識させてくれたのがアルファ156であった。エンジンやシャシーなど多くのものを共有することで成り立っている現代のクルマ事情のなかで、スタイリングでこれほど際立っているのは、それだけで◎だ。よく観察すると、微妙な曲線を描くAピラーや後ドアのドアノブなど、よく考えられた跡が読み取れる。

 のちにスポーツワゴンや高性能ヴァージョンの「GTA」(本来は軽量化したレーシイなモデルにつかった名前だが、アルファ156GTAはパワーアップのために重量増。スポーツワゴンにも設定された)も加わるが、趣味的には初期の2.0Lを綺麗に維持する、なんていうのがいいなあ。

82)アルファ・ロメオ ジゥリエッタ・スパイダー

Alfa-romeo

アルファ・ロメオ

イタリア車が面白い、そのきっかけはアルファ・ロメオだったろうか。1960年代までのクルマ趣味において、アルファ・ロメオはイタリアンの主流であった。五感にダイレクトなスタイリング、サウンド、走り振りなど、誰が見ても格好よかったし馴染めた。周囲にアルフィスタが多く居たこともあって、身近かではあったが所有するまでにはいたらなかった。
 それにしても、アルファ・ロメオは多彩だ。クーペ・ボディは時代時代でどれもがスタイリッシュだったし、それにスペシャル・ボディというべきカロッツェリアメイドの「スペチアーレ」モデルが加わる。スパイダーも同様。持てることならミニカーのごとくに時代ごとにそろえたくなる。それだけでなく「ベルリーナ」、サルーン・ボディがこれまたなかなかの個性派揃い。
 ジゥリア・スプリントをはじめとして、いまでも街ですれ違うと「いいなあ」と思わせるアルファ・ロメオは少なくないし、アルファ156をはじめとする一連のモダンカーもひと味ちがうクルマ生活を与えてくれる。
■ アルファ・ロメオ ジゥリエッタ・スパイダー/Alfa-Romeo Giulietta Spider
*ALPHA-ROMEO CLASSIC*

 それこそ役者揃いかつ粒揃いで、ひとつを選べといわれると大いなる悩みを抱えてしまうアルファ・ロメオ。ジゥリア・スプリントGTのシリーズはもう「定番」として人気が確立されているし、4ドアのジゥリア・スーパーも捨て置けない。もちろん、時代が流れてアルファスドやアルフェッタGT、さらにはアルファ164(とくにQ4)、アルファ156もやがて残るクルマになるだろう。
 そうしたもろもろを思い巡らした果てにジゥリエッタ・スパイダーをあげておこう。なんといってもあの「可憐」と形容されるスタイリング、それにコンパクトで手に余らないサイズ。趣味のクルマ、として主張するならなかなかいい条件が備わっている。いうまでもなく1950年代後半に登場して、アルファ・ロメオの体質改善におおいに貢献したシリーズとしてジゥリエッタ・シリーズは存在し、1960年代にひと回り大きな1.6L~のジゥリア・シリーズに移行する。だけれど、基本的に1.3Lのジゥリエッタ・シリーズでも不足はなく、すでにメカニズム的には完成の域に達していた(とくに1959年~の101系以降)から、維持していくのに特別困ることはない。

 逆に美点をあげたら、まあ留まるところを知らない。ピニンファリーナ・スタイリングのボディは、まずその第一にあげられるべきものだろう。アルファ・ロメオの楯グリルを中心にしたフロントから、ちいさな主張をするテイルフィンに至るまで密度の濃いディテールが詰まっている印象だ。それには、もともとのジゥリエッタのフロアパンを130mmちぢめて2250mmとしたホイールベースの効果が大きい。それは、走って小気味よいことにもつながっているはずだ。
 イノウエが好きなのはインパネ。基本、ボディと同じ色の鉄板なのだが、上部をパッドで覆いクラシカルなヴェリア製メーターを並べたパネルは、ホーン・リング付のステアリング・ホイールとも相俟って、独特の「いい雰囲気」を醸している。1963年~はエンジンを1.6Lにした同じボディのジゥリア・スパイダーに発展するが、エンジン・フード上のパワー・バルジがないこと一点を採っても、ジゥリエッタがいいなあ。

81)フィアット・アバルト595SS

Abarth

アバルト

イタリアの「火の玉ブランド」と名付けられたアバルトは、もっとも興奮させられるブランドのひとつといっていい。小さいくせにスタイリッシュ、排気量も小さいくせにカリカリのチューニング。ボディはカロッツェリア・ザガートがアルミで丹念にこしらえ、エンジンは「アバルト・マフラー」でとどめを刺す、なにはともあれ好き者が好き者のためにつくったようなブランドなのだ。とても繊細で「飼い馴らしにくいサソリ」といわれたアバルト、本当にそんなに大変なのか、と実際に飼っていたりもした。その購入、メインテナンス、維持、いろいろ勉強になったなあ。懲りずに、いまも欲しいクルマの最右翼。
■ フィアット・アバルト595SS/Fiat-Abarth 595 esse-esse
*FIAT CLASSIC*

 フィアット・アバルト595SSは、キュートなフィアット500とアバルトというふたつの魅力を併せ持つ「一粒で二度おいしい」小さなアイドルである。 いまでこそ、ニュウのフィアット500が登場し、そのアバルト仕様、さらにはフェラーリが手を貸したモデルまでが加わるに至って、いささか影が薄くなったと思われるかもしれないが、趣味度という尺度ではまだまだ輝きは失せていない。
 フィアット500を思い切りドレスアップしたかのような出で立ち。これでもか、とエンブレムを付けまくっているけれど、それがまたいいセンスで、見ただけでもすぐにステアリングを握って走り出したくさせられる。いいドレスアップのお手本のようなものだ。

 それまでもフィアット量産車をベースに、速い小型車をアレインジしてきたアバルトは、1957年にフィアット500が発売されるやそれをベースに、数々のアバルト・ヴァージョンをつくった。それはフィアット・アバルト500ベルリーナにはじまり、594cc、27PSエンジン搭載のアバルト595、32PSの595SS(esse-esse)から38PSの695SSアセット・コルサに至るまで。これとは別に1957年にはザガート・ボディのアバルト500ザガートも提案され、小さなフィアット500をベースに並々ならぬ意欲を示した。
 アバルトの名の付くクルマはどれもがクルマ好きを熱くさせる。小さなアバルト595SSであっても、もとのフィアット500からは想像できないほどの迫力を以って、ちょっとしたレーサー気分にさせてくれる。ガレージに1台忍ばせておきたいペットのようなクルマだ。

80)ランチア・テーマ8・32

Lancia

ランチア

ランチアという個性的なブランド、その出会いは強烈であった。ほとんど一般路上で出逢うことのないランチアを訪ねて、愛好家のもとを訪ねたのだけれど、それぞれに深くランチアに思い入れていて、クルマ好きを自認しはじめたばかりのイノウエにしても別世界のような気さえしたものだ。なにしろランチア・フルヴィア・クーペにフラヴィア・スポルト、加えてランチア・ストラトスというような個性の塊のようなモデルばかりだったのだから。
 のちに、ランチア・デルタHFインテグラーレ、それもごく初期の「エヴォルツィオーネ」でもなんでもないモデルに乗ったとき、まさに目からウロコであった。グッとランチアが身近かに寄ってきてくれた気にもなった。以後、テーマのステーションワゴンとかテーマ8・32、イプシロンなど個性的で存在感のあるモデルがつづく。その前のランチア・ベータ・クーペ、モンテカルロも記憶に残る。
■ ランチア・テーマ8・32/Lancia Thema8.32
*LANCIA CLASSIC*

 ランチア・テーマはジウジアーロ・デザインのボディが魅力的なアッパーミドルと呼ばれた上級サルーン。アルファ・ロメオのアルファ164など4車で同じシャシーを用いたことも特筆されるもので、1980年代中盤から10年間ほど生産がつづいた。なかにはカロッツェリア・ピニンファリーナによって生産されるステーションワゴンも注目を集めたが、なにより羨望を集めたのはランチア・テーマ8・32だ。「テーマのクリーンなボディにフェラーリのV8ユニットを組み合わせた」というテーマ8・32は独特の存在感のあるクルマだった。  外観上はほとんどテーマそのもの。アロイホイールに少し太めのタイヤ、サイドに入れられた細いピン・ストライプ、それに格子状のグリルに小さな「8.32」のエンブレム、ちがいはそれだけなのに、どっしりとした風格さえ漂う。そして、これがまた走らせたら堪らない。エンジンはフェラーリ308GTB「クアットロヴァルヴォーレ」用の3.0L、V8気筒DOHC32ヴァルヴ。「8.32」はいうまでもない、8気筒32ヴァルヴのエンジンに由来する。フェラーリとちがってそのエンジンがフロントに横置き搭載され、前輪を駆動する。それにしても200PS超の前輪駆動車。いささか発進には気を使うものの、走ればこんな豪快で愉しいサルーンも珍しい。なにしろ、あの魅力的なフェラーリ・サウンドがフロントから風に乗って聴こえてくるのだ。リアには小さな可動式のウイングも付き、高速道路でその後姿を見せつけるが如くに走る快感はさすがイタリアン、といった感じだ。  室内も格段に上質なつくりになっており、なるほど、世界のお金持ちにとってこうしたサルーンの存在価値もあるのだろうな、と思わせた。標準的なランチア・テーマieに対して優に2倍以上の価格も、妙に納得できるテーマ8・32であった。

79)マツダ・ルーチェ・ロータリー・クーペ

Mazda

マツダ

思い返してみれば、マツダは独自の規範で時代に名を残す意欲的なモデルをいくつも残してきた。いうまでもなくその筆頭は、マツダ・コスモ・スポーツにはじまるロータリイ・エンジンを搭載した一連のスポーツ・モデルだ。ファミリア・ロータタリー・クーペ、RX-3サバンナ、RX-7、RX-8とつづく系譜は、わが国の自動車史においても独自のポジションを保っている。このなかにも、前輪駆動のRX-87ルーチェ・ロータリー・クーペなどという隠れた意欲作も含まれる。
 そんなマツダだが、昨今はまったくちがう顔を見せている。マツダ・デミオのヒットはご同慶だし、基本に忠実なスポーツカー、ユーノス/マツダ・ロードスターの存在も忘れられない。
■ マツダ・ルーチェ・ロータリー・クーペ/Mazda Luce Rotary Coupe
*MAZDA CLASSIC*

 もう忘れられてしまっているかもしれないが、マツダ・ルーチェというサルーンがあった。とくに初代モデルはイタリア、カロッチェリア・ベルトーネ時代のジウジアーロによって描かれたクリーンで美しいボディを持つ4ドア・サルーンだった。彫りが深いフロントに、ルーフは平らでピラーは細く、ガラス面積が大きなスタイリングは、いかにもイタリアンといったエレガントさが漂っていた。
 マツダ・ルーチェ・ロータリー・クーペは、名前にこそルーチェと付き、スタイリングに共通のイメージは持つものの、生産に関してはまったく別物の中身を持っていた。そもそもは1967年の東京モーター・ショウに、のちにマツダ・ファミリア・ロータリー・クーペとなるRX85とともにRX87の名前で展示されたプロトタイプ。それはマツダのシンボル、ロータリー・エンジン搭載車であったが、そのエンジンは新規のハウジング・サイズを採用した13A型というもので、しかも前輪駆動となっていたのである。ホイールベース2580mm、全長4.5m超のサイズは、4ドアのルーチェと共通するどころか、それよりもひと回り大きい。
 1969年発売されたが、初めて三角窓のないハードトップであったことや価格的に175万円のスーパーDXはいすゞ117クーペに匹敵することなど、上級パーソナル・カーという印象が強く打ち出された。結果的には1972年までわずか1000台足らずを発売したにとどまる、幻のクルマになったのだった。

76)フェラーリ365GT4 2+2

Ferrari

フェラーリ

クルマ世界のひとつの頂点のブランド。頂点だけにいろいろプラスもマイナスもあるのは当然として、純粋に憧れさせられる存在であるのはまちがいない。われわれが子供の頃にはあまりにも遠い存在で、馴染みもなにもなかったのだが、だんだん広く知られるようになっていまや高価で高性能なクルマの代名詞のようになっている。その過程をつぶさに体験できたのは幸いであった。どこまでも高嶺の花、永遠の憧れであるのはちがいない。逆にいうと、フェラーリのような憧れのクルマがなかったら、貯金する目標を失ってしまうヒトも出てくる、というものだ。
 「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
■ フェラーリ365GT4 2+2/Ferrari365GT4 2+2
*FERRARI CLASSIC*

 フェラーリは伝統的に1気筒あたりの排気量を以って型式名をつけてきた。だから「365」というのは365×12気筒、つまりは4.4Lエンジン搭載車であることを示す。こんな話は、基本的には12気筒エンジンしかつくってこなかったフェラーリの誇りに満ちたむかし話になってしまったようだ。
 話変わって、ここに1台のフェラーリらしからぬGTがある。フェラーリ365GT4 2+2。スタイリングを見ての通り、のちのちフェラーリ400、412となったことで、ああ、と思ったりするがその祖であり1970年代中盤のちょっと捨て置けない雄大な2+2だ。同じ「365」として大きな人気を得たフェラーリ365GTB/4「デイトナ」から画期的なミドシップ、フェラーリ365GT4BBにチェンジする時代の、「もうひとつのフェラーリ」というものである。フェラーリはフラッグシップ・モデルとは別に高価な4人乗りGTをつくり、その儲けでレース活動をしていた、などといわれた。
 たとえば、「BB」とはフロント・フード上に設けられた銀色のルーヴァなどに共通のモティーフを見出すことができる2+2は、のちのフェラーリ412などと較べるといかにも骨っぽい。DOHCのV12気筒エンジンは、「デイトナ」の280PSより遥かにマイルドな245PSだが、まだ威勢のいい時代のもの。さすがフェラーリの血筋を思わせる。
 とびきりのフェラーリのセカンドカーはこんな2+2だと格好いいのだが、現実はみんな優秀なメルセデスなんだろうな。

75)ディーノ246GT

Ferrari

フェラーリ

クルマ世界のひとつの頂点のブランド。頂点だけにいろいろプラスもマイナスもあるのは当然として、純粋に憧れさせられる存在であるのはまちがいない。われわれが子供の頃にはあまりにも遠い存在で、馴染みもなにもなかったのだが、だんだん広く知られるようになっていまや高価で高性能なクルマの代名詞のようになっている。その過程をつぶさに体験できたのは幸いであった。どこまでも高嶺の花、永遠の憧れであるのはちがいない。逆にいうと、フェラーリのような憧れのクルマがなかったら、貯金する目標を失ってしまうヒトも出てくる、というものだ。
 「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
■ ディーノ246GT/Dino246GT
*FERRARI CLASSIC*

 古今のクルマのなかで、現実的に所有できる一番美しいと思えるのがディーノ246GT。飽きることなく名車図鑑のような本を眺め、ある時にそう判断した。いまからずっと前のこと、まだイノウエがここまで深くクルマにのめり込んではいなかった頃だ。したがって、なんの実感もなくただただ理想に近いクルマとしてその名を挙げたのだった。
 思いつづければ夢は叶う、というわけではないのだが、まったく現実味を持っていなかったディーノ246GTが、ある日突然に身近かにやってきた。スーパーカー・ブームとやらが去って、中古車店の片隅に買い手の付かないディーノがあったのである。運というものだろうか。ちょっと注目の高かった「ラスト・ミジェット」を下取りにして、まあリーズナブルに値引きしてくれる、という。かくして、イノウエは夢とばかり思っていたディーノ246GTを手にした。
 エンジンを直し、ボディを直し、ようやく乗れるようになって、ディーノ246GTの写真本をつくった。持ちきれなくなったら、それはその時だ。そんなつもりでいたのが、もう30年以上経過していま当時よりも好調でいてくれる。こんな濃密で素晴らしいクルマ生活。面倒を見てくれる主治医の存在も大きい。手前味噌でモーシワケナイのだが、いまだ飽きることもなく溺愛状態なのはシアワセというほかはない。

74)フェラーリ250LM

Ferrari

フェラーリ

クルマ世界のひとつの頂点のブランド。頂点だけにいろいろプラスもマイナスもあるのは当然として、純粋に憧れさせられる存在であるのはまちがいない。われわれが子供の頃にはあまりにも遠い存在で、馴染みもなにもなかったのだが、だんだん広く知られるようになっていまや高価で高性能なクルマの代名詞のようになっている。その過程をつぶさに体験できたのは幸いであった。どこまでも高嶺の花、永遠の憧れであるのはちがいない。逆にいうと、フェラーリのような憧れのクルマがなかったら、貯金する目標を失ってしまうヒトも出てくる、というものだ。
 「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
■ フェラーリ250LM/Ferrari250LM
*FERRARI CLASSIC*

 先に、なんでも欲しい1台をあげよう、という答えにフェラーリ288GTOの名前を挙げたのだが、それは雑誌のアンケートかなにかの答えでいったようなもの。一般受けをも考慮して決めた答え、もちろんそれはそれで決してウソではないのだけれど、イノウエにとって永遠の憧れ、というようなもうひとつが表題のフェラーリ250LM。いや、基本的にレースカーには興味が薄いのだが、「LM」をアシに使っている御仁の話などを訊くにつけ、ちゃんとしたカタログ・モデルとして売られたことだし、あえてこの名を挙げてみたくなる。
 洋書などで見て憧れるばかりのフェラーリ250LMだったが、のちのち幸運にも何台かの「LM」を撮影し、少しばかりだがステアリングさえ握らせてもらえたことからすると、さすが1960年代の本気のフェラーリ。眺めるだけでいいからいつまでも見ていたい、そんな別世界を感じるばかりなのだった。

73)シトロエンDSファミリアーレ

Citroen

シトロエン

フランス車というといまでこそ、プジョーもルノーもシトロエンもしっかり認識されているし、逆にいうとほとんどその3ブランドに集約されてしまっている。そして結構広く浸透しているのだが、ひと昔前までは、フランス車はよほどの好事家のもの、という感があった。それは劣悪なわが国の環境(高温多湿、渋滞の多い道路など)のなかでは、当時のフランス車は住みにくかったし、だからか、なかなかフランス車をきっちり面倒みてくれるところも少なかった。いや、そうした環境にもかかわらず、フランス車は魅力的ではあった。かつてシトロエンCX、CX、DSと3台を経験し、どうしてフランス人はあんなに普段の生活に使いこなしているのだろう、とちょっとばかり嫉妬したイノウエ。もう一度シトロエンDSとの暮らしを、などと思わせるのだから、困ったものである。
■シトロエンDSファミリアーレ/Citroen DS familiare
*CITROEN CLASSIC*

 シトロエンDSの偉大さというか、その存在のなんたるかは今さら述べるまでもあるまいが、なんとか一度あのシトロエンDSによる生活を経験してみたい。それは、クルマに興味を持ちはじめたときからのぼんやりとした夢のようになっていた。だから、なん台目かのアシとしてシトロエンCXを手にしてからも、いつかはシトロエンDSという気持ちは収まるどころか、なお昂揚していたといっていい。充分にシトロエンCXも別世界だったのだが、それから想像するにさらなる濃密な生活が想像されて、「劇薬」を欲するようになってしまったのだ。
 夢は意外な形で実現した。名古屋でシトロエンDSの生活を実現していたTさんが、仕事の都合で東京に単身赴任になった。ついてはシトロエンDSを預ってくれないか、というのだ。そのかわりウイークデイズは自由に使っていい、という願ってもない提案。かくして、いくつかの約束ごとをつくって、丸3年間シトロエンDSとの濃密で天国のような生活を経験させてもらった。あの乗り心地、存在感。同じ道を走っても景色がちがって見える、というものだ。
 で、シトロエンDSに乗っていたおかげで、いろいろ得る知識も増えた。フランス、シトロエン社にいく機会もあった。パリやフランスのいくつかの街でシトロエンDSのありのままの姿にも出遇ったり、かの地の愛好家とも交流したりした。その結果、どうしても暮らしてみたいシトロエンDSはファミリアーレという結論に達した。見果てぬ夢、ではあるけれど、まだあきらめきってはいない。

72)アルファ・ロメオSZ

Alfa-romeo

アルファ・ロメオ

イタリア車が面白い、そのきっかけはアルファ・ロメオだったろうか。1960年代までのクルマ趣味において、アルファ・ロメオはイタリアンの主流であった。五感にダイレクトなスタイリング、サウンド、走り振りなど、誰が見ても格好よかったし馴染めた。周囲にアルフィスタが多く居たこともあって、身近かではあったが所有するまでにはいたらなかった。
 それにしても、アルファ・ロメオは多彩だ。クーペ・ボディは時代時代でどれもがスタイリッシュだったし、それにスペシャル・ボディというべきカロッツェリアメイドの「スペチアーレ」モデルが加わる。スパイダーも同様。持てることならミニカーのごとくに時代ごとにそろえたくなる。それだけでなく「ベルリーナ」、サルーン・ボディがこれまたなかなかの個性派揃い。
 ジゥリア・スプリントをはじめとして、いまでも街ですれ違うと「いいなあ」と思わせるアルファ・ロメオは少なくないし、アルファ156をはじめとする一連のモダンカーもひと味ちがうクルマ生活を与えてくれる。
■ アルファ・ロメオSZ/Alfa-Romeo SZ
*ALFA-ROMEO MODERN*

 アルファ・ロメオ ジウリエッタSZから30年を経て「SZ」の名が蘇った。ふたたびちょっとした低迷に陥っていたアルファ・ロメオが、久々にヒットしかかっていた小型車、アルファ75のフロアを利用し、カロッツェリア・ザガートが腕を振るった。ジウリエッタ時代とちがうのは、アルミではなくてFRPを使って軽量を実現したことだ。しかし、スタイリングは好嫌二分するようなものであった。
 最初に姿を現した1989年のパリ・サロン。忘れもしない、となりに徳大寺有恒さんがいらして、ヴェイルを脱いだとたんに「アグリイだなあ」と呟かれた。3対の四角いヘッドランプを並べたフロント、まとまりを欠いた四角いリア、確かに、かつてのジウリエッタSZのような愛すべき形は感じられなかった。
 その翌年だったか、イタリアでアルファSZの試乗の機会を得た。スタイリングのことが引っかかっていて、さほどの期待を抱くことなく走り出したのだが、いや、走ってみるとそのポテンシャルの高さに目を瞠った。特別傑出したところがない代わりに、高い次元でそつなくいい走りを示すといった風。半日を痛快に走っているうちに、すっかりアルファSZがお気に入りになっていた。そうして見るうちにスタイリングも個性的で悪くない、と思えてくるから不思議だ。もちろんクラシックなジウリエッタSZと直接較べるものではないけれど、いや、アルファSZもいいなあ。

71)アルファ・ロメオ ジゥリエッタSZ

Alfa-romeo

アルファ・ロメオ

イタリア車が面白い、そのきっかけはアルファ・ロメオだったろうか。1960年代までのクルマ趣味において、アルファ・ロメオはイタリアンの主流であった。五感にダイレクトなスタイリング、サウンド、走り振りなど、誰が見ても格好よかったし馴染めた。周囲にアルフィスタが多く居たこともあって、身近かではあったが所有するまでにはいたらなかった。
 それにしても、アルファ・ロメオは多彩だ。クーペ・ボディは時代時代でどれもがスタイリッシュだったし、それにスペシャル・ボディというべきカロッツェリアメイドの「スペチアーレ」モデルが加わる。スパイダーも同様。持てることならミニカーのごとくに時代ごとにそろえたくなる。それだけでなく「ベルリーナ」、サルーン・ボディがこれまたなかなかの個性派揃い。
 ジゥリア・スプリントをはじめとして、いまでも街ですれ違うと「いいなあ」と思わせるアルファ・ロメオは少なくないし、アルファ156をはじめとする一連のモダンカーもひと味ちがうクルマ生活を与えてくれる。
■ アルファ・ロメオ ジゥリエッタSZ/Alfa-Romeo Giulietta SZ
*ALFA-ROMEO CLASSIC*
 数あるアルファ・ロメオのモデルのなかで、やはり一目置かされてしまうのはジウリエッタSZであろうか。アルファ・ロメオは1950年代中盤に送り出したジウリエッタ・シリーズの成功で生きを吹き返した。それまでは大型の高級車を手づくりしていたのだが、小型の量産モデルに切り替えないことには商業的に立ちいかなくなっていたのだ。一か八かではないだろうが、その思い切った転換が功を奏し、ジウリエッタ・シリーズは大ヒットとともにいろいろな魅力的ヴァリエイションを増やしていった。  スタイリッシュなクーペのジウリエッタ・スプリントにはじまり、可憐なスパイダー、4ドアのベルリーナ、さらには高性能GTたるスプリント・スペチアーレを加えていく。そして、このジウリエッタSZである。キャラクターからいうと、軽量レーシング・スポーツというポジション。そのために、チューニングしたエンジン、シャシーに、カロッツェリア・ザガートがアルミ軽量ボディをしつらえた。なにが魅力的といって、まだ空力がそんなに解析できていない時代、角を落として風に逆らわないようまあるいボディが形づくられたのだ。  レストレイションなのだろうか、まっさらのボディをつくっているザガートの傍系カロッツェリアを訪ねた。アルミ・パネルを形づくる熟練のクラフトマン。その手法にも感動したのだった。  翻って、ジウリエッタSZほど走らせていいバランスなクルマもめずらしい。排気量たかだか1.3Lなのに、こんなにしゅんしゅん走れていいのだろうか。そんな感じで箱根を飛ばした。ボディが軽いことはいいことなんだなあ。頂上のパーキングに停めて、いままでの走りの快感を思い出しながら、しばしそのスタイリングに見とれたのだった。SZのような愛すべき形は感じられなかった。  その翌年だったか、イタリアでアルファSZの試乗の機会を得た。スタイリングのことが引っかかっていて、さほどの期待を抱くことなく走り出したのだが、いや、走ってみるとそのポテンシャルの高さに目を瞠った。特別傑出したところがない代わりに、高い次元でそつなくいい走りを示すといった風。半日を痛快に走っているうちに、すっかりアルファSZがお気に入りになっていた。そうして見るうちにスタイリングも個性的で悪くない、と思えてくるから不思議だ。もちろんクラシックなジウリエッタSZと直接較べるものではないけれど、いや、アルファSZもいいなあ。
70)ランチア・デルタHFインテグラーレ16v

Lancia

ランチア

ランチアという個性的なブランド、その出会いは強烈であった。ほとんど一般路上で出逢うことのないランチアを訪ねて、愛好家のもとを訪ねたのだけれど、それぞれに深くランチアに思い入れていて、クルマ好きを自認しはじめたばかりのイノウエにしても別世界のような気さえしたものだ。なにしろランチア・フルヴィア・クーペにフラヴィア・スポルト、加えてランチア・ストラトスというような個性の塊のようなモデルばかりだったのだから。
 のちに、ランチア・デルタHFインテグラーレ、それもごく初期の「エヴォルツィオーネ」でもなんでもないモデルに乗ったとき、まさに目からウロコであった。グッとランチアが身近かに寄ってきてくれた気にもなった。以後、テーマのステーションワゴンとかテーマ8・32、イプシロンなど個性的で存在感のあるモデルがつづく。その前のランチア・ベータ・クーペ、モンテカルロも記憶に残る。
■ ランチア・デルタHFインテグラーレ16v/Lancia Delta HF Integrare
*LANCIA CLASSIC*

 そもそもランチア・デルタは1979年に発表された小型4ドア・サルーン。それに、ラリイを意識し、「グループA」に参戦できるモデルとしてランチア・デルタHF4WDが加えられたのが1986年。以後、1995年の最終モデルに至るまでの過程は、それこそ進化に進化を繰り返す、これでもかの飽くなき追求の跡を読み取ることができ、まるでクルマ好きがだんだんにチューニング・アップしていく過程のようでもあって実に面白い。なお車名の「HF」はHigh-Fidelity、つまり高再現性、感性に忠実なというような意味。「インテグラーレ」は統合する、一体化するというような、英語でいう「integrate」。「エヴォルツィオーネ」は「evolution」、つまり進化形ということを表している。
 で、1986年のランチア・デルタHF4WDは、1988年にランチア・デルタHFインテグラーレとなり、ブリスター・フェンダ、167PSから185PSにアップした直列4気筒2.0L+ターボ・チャージャのエンジンを持つ。1989年にはエンジンを16ヴァルヴ化 、200PSのランチア・デルタHFインテグラーレ16vに。1992年に「エヴォリューション」に進化。それはドアと一体のブリスター・フェンダに210PSエンジンを持つ。進化は止まらず1993年、「エヴォルツィオーネⅡ」に。燃料噴射がシークエンシャルになり215PS、16インチ・ホイールが特徴。この時代の1994年には「ジアッラ(黄)」の名前通りのイエロウ塗色モデル、「ブルウ・ラゴス」モデルが限定でつくられる。そして、1995年の最終モデルには「コレッツィオーネ」の名前でえんじ色のボディに青と黄のランチア・カラーのストライプ、シリアル番号プレート付モデルが、とくに人気だった日本市場にもたらされている。
 それこそ、初期の前輪駆動のランチア・デルタGTから、各時代のデルタHFインテグラーレを乗ったが、どれもが痛快で、汗をかかせてくれた。「コレッツィオーネ」などまさしくコレクションする価値のある1台といえよう。

69)マセラティ・クアトロポルテ

Maserati

マセラティ

2014年で「100周年」を祝ったマセラティは、ひと口でいえばイタリアの名門ブランドというに尽きる。なんども経営危機に陥り、シトロエン、デ・トマソ、フィアットなどの傘の下に入りつつも、創始者、マセラティ三兄弟の結付きを表す、ネプチューン神の持つ三叉のモリ「トライデント」エンブレムは、古今のマセラティ車のフロントに輝きつづけている。
 基本的には上級のスポーツカー、サルーン・ブランドだが、歴史的にはレースでの栄光、ときに個性的なスーパーカーなど、マセラティにはつねに羨望のまなざしが向けられていた。1980年代の四角く巨大なマセラティ・クアトロポルテⅢを走らせ、あまりの迫力に感動しつつ、メルセデスではなくてマセラティを選ぶ社長さんに親しみを憶えたりしたものだ。その後も、ガンディーニ・デザインのクアトロポルテ(Ⅳ)では九州まで快適至極のロング・トゥアーをしたり、はたまたマセラティ3200GTでイタリアを走ったり、いつの間にかマセラティにはずいぶんお近づきになっている。
 近年は独自の個性と存在感で生産台数を増しているマセラティ。高性能高級サルーン/GTのイタリア代表として、しばらく君臨しつづけるにちがいない。
■ マセラティ・クアトロポルテ/Maserati Quattroporte
*MASERATI MODERN*

 ピエトロ・フルアがデザインした1963年デビュウの初代クアトロポルテ、クアトロポルテⅢと呼ばれるジウジアーロ・デザインのビッグ・サルーンもいいけれど、1994年からつくられたガンディーニ・デザインの四代目クアトロポルテに、少しばかり思い入れがある。ランチア・ストラトスやランボルギーニ・カウンタックなど並外れたエキゾティックな作品を残す、天才マルチェロ・ガンディーニにしては至極真っ当なサルーン。リアのホイール・アーチ部分にわずかに自己主張を残した、というような印象が素敵だ。それにサイズ的にも使い勝手がよかった。
 しかし、それにしてもいくらマセラティにとって初めての4ドア車のはじまりとはいっても、クアトロポルテ、「四枚のドア」というネーミングには、お国柄のちがいを感じてしまう。だが、それを「クアトロポルテ」と発音してしまえば、いかにもイタリアンに聞こえて嬉しくなってしまうのだから始末が悪い。
 外観よりもインテリアがマセラティ・クアトロポルテの「売り」の部分。いきなり応接間に通されたような豪華な気分で、それが自分の部屋になったりしたら、それは素敵なことというほかはない。クアトロポルテをいつか手に入れて、そんな生活ができたらなどと夢を見つづける快楽。、シレッと目立たないやはり四代目クアトロポルテがいいなあ。

68)マセラティ・ボーラ

Maserati

マセラティ

2014年で「100周年」を祝ったマセラティは、ひと口でいえばイタリアの名門ブランドというに尽きる。なんども経営危機に陥り、シトロエン、デ・トマソ、フィアットなどの傘の下に入りつつも、創始者、マセラティ三兄弟の結付きを表す、ネプチューン神の持つ三叉のモリ「トライデント」エンブレムは、古今のマセラティ車のフロントに輝きつづけている。
 基本的には上級のスポーツカー、サルーン・ブランドだが、歴史的にはレースでの栄光、ときに個性的なスーパーカーなど、マセラティにはつねに羨望のまなざしが向けられていた。1980年代の四角く巨大なマセラティ・クアトロポルテⅢを走らせ、あまりの迫力に感動しつつ、メルセデスではなくてマセラティを選ぶ社長さんに親しみを憶えたりしたものだ。その後も、ガンディーニ・デザインのクアトロポルテ(Ⅳ)では九州まで快適至極のロング・トゥアーをしたり、はたまたマセラティ3200GTでイタリアを走ったり、いつの間にかマセラティにはずいぶんお近づきになっている。
 近年は独自の個性と存在感で生産台数を増しているマセラティ。高性能高級サルーン/GTのイタリア代表として、しばらく君臨しつづけるにちがいない。
■ マセラティ・ボーラ/Maserati Bora
*MASERATI CLASSIC*

 「実用的スーパーカー」などと呼びたくなる、マセラティ・ボーラ。ジウジアーロ・デザインの個性的なスタイリング、ミド・マウントされるのはマセラティの十八番ともいうべきV8気筒DOHC4.7Lエンジン、しっかりとつくり込まれたインテリアなど、ともすれば非現実的なのがスーパーカーといわんばかりのライヴァルたちのなかにあって、マセラティ・ボーラはよくバランスがとれて、本当に実用にできた。  そう、違和感といえば、当時シトロエン傘下だったことから採用された、独特のフィーリングのブレーキにこそちょっとした慣れが必要だったが、いきなりステアリングを明け渡されても、まったく気負うことなく走り出せる。そして結構な距離走ってもスーパーカー独特の不当な疲労感が溜らない。マセラティ・ボーラは長きに渡って所有しても困ることのない数少ないスーパーカーのひとつ、と実感したのだった。断っておくが、だからといってスーパーカーの名に外れるものではない。マセラティ伝統のV8ユニットは、ちょっとでも右足に力を込めれば、強烈な加速感とともに途方もない速度域にまで運んでくれる。そのときに体感される迫力は、間違いなくスーパーカー・カテゴリイ。

67)オースティン・ミニ・カントリイマン

Mini

ミニ

「革新の小型車」/親しめる顔つきのスタイリング/小気味よい走り/精神的拠りどころ多し/長い歴史と高い名声/ひとつの「ミニ・ワールド」の存在
 ワールドという通り、ひとつの世界があり、ミニ自体が細分されることは承知の上で、敢えてミニ全体をまずあげておこう。
 ミニはいろいろ乗ったなあ。一番旧いのは、ミニの「試作車」といわれる848ccから、最終期のモデルまで各時代のモデル、いくつものヴァリエイション、さらにはミニ・ベースの怪し気なスペシャル(それには三輪車もある)まで、ほとんどのミニに乗せてもらった。
 初期のミニは1速が直歯のギアなので、1速でちょろりとスタートして、すぐに2速にシフトアップ、減速もエンジン・ブレーキなど使わずに、前の信号が赤になったらギアを抜いて惰力で走る、などといった旧い英国車の作法は、なんどか英国人の隣りに乗せてもらって教わった。英国車趣味の大先輩、西端日出男さん(元日英自動車)がまったくその通りの運転をされていたのを思い出す。ただの小型サルーンのくせに、ダイレクトなステアリングの感触、クイックな走りはその気になればなるほど愉しかったりする。
■ オースティン・ミニ・カントリイマン/Austin Mini Countryman
*MINI CLASSIC*

 たかだかドアとリアサイドのウィンドウにウッドのトリムが付いただけなのに……そういわれるかもしれないけれど、そのウッドのトリムが付いただけで、こんなにも「普通」でなくなる。むかし、それこそ新車状態で日本に輸入されたカントリイマンはMk-Ⅱ時代に10台近くがあった、という。輸入第一号車は写真家の立木義浩さん、第二号車がイラストレーターの山下勇三さんだった、と教えてもらい山下さんのカントリイマンを撮影させてもらった。ちなみに、モーリス版のミニ・トラヴェラーは15台ほどが輸入された由。また立木さんのカントリイマンはのちにかまやつひろしさんの愛車になった。感性豊かな方たちにおしゃれなひと味ちがうミニ、として選ばれたのだ。なるほど、合点がいく。
 それにしても、中身はそのまんまミニなのだが、リアが観音開きになり、大きくフラットな荷室が広がる景色は、そこだけ英国になったような気分がしたものだ。いつか家族ができて車庫にはカントリイマンなんて生活がいいなあ、と思ったりはしたものの、それは実現しないままいまだに淡い夢のように思いつづけている。

66)ジャガーEタイプ

Jaguar

ジャガー

ジャガーは戦後間もなく送り出したジャガーXKシリーズ・スポーツカーの成功で、その基礎をつくり、われわれ世代には上質で英国的なサルーン、スポーツカー・ブランドとして認識されていた。ウッドと本革のインテリア、という言葉に象徴される英国車らしさは、ジャガーのテイストとも共通するものだ。
 ずいぶん前のことだが、ジャガーの工場と工場に併設されている博物館を見学したことがある。クラフツマンシップ、それこそレザーとウッドの使い方など、予想していた通りの上質のつくり方が解った。ジャガーXタイプを1週間にわたって駆り出し、英国取材のアシに使わせてもらったりもした。やはり英国でのジャガーは相応のステイタスがあり、誇りでもあることを感じた。やはりジャガーはなくなってもらっては困るブランドにちがいない。
■ ジャガーEタイプ/Jaguar E type
*JAGUAR CLASSIC*

 いや、ジャガーEタイプとひと口にいっても、いやスタイリングだったら絶対初期の「シリーズⅠ1/2」より前の1967年モデルまで、走らせたら「シリーズⅢ」のV12気筒エンジンの魅力に尽きる、などとミクロのやり取りが出てくるのだが、総じてジャガーEタイプのエレガントな佇まいは、英国紳士にもっともよく似合うスポーツカーとして永遠に輝きつづける。全長の半分もあるのではないかという長いノーズから、美しくすぼまるテールエンドに至るまで、まさしくこんなクルマが世にあったのか、という存在感を見せる。
 いうまでもなく旧き佳き英国を代表する1台。もっというならば、英国が没落する直前の最後の輝きにも似て、ジャガーEタイプは華やかな光芒、オーラのようなものさえ感じられる。
 そもそものジャガーEタイプは米国市場を強く意識してつくられた。多くのライヴァルが4気筒、それもOHVエンジンだったところに「ストレート6」、それもDOHCメカニズムを搭載して、大きなヒットとなった。最後の「シリーズⅢ」ではそれを一気にV12気筒、「ダブル6」に置き換えた。つねに最高峰を意識した、ジャガーEタイプ、といった印象を与える。
 1960年代にはじまり、1975年まで世界に向けて7万2000台余、2シーター・クーペ、2+2クーペもつくられ、それらは独自の魅力を持つけれど、とりあえずジャガーEタイプはオープンに勝るものなし。永遠のシンボリックな存在である。

65)BMW Z1アルピナ

BMW

BMW

BMWは独特のシャープな味わいで、今や泣く子も黙ってしまうような一流ブランドになっている。みんながもて囃すものには、どことなく冷めた目を向けてしまうことが多いが、いくつかの熱狂させられるモデルが存在するのは見逃せまい。クルマ好き目線でいうと、かつての「02」シリーズや「CS」など身近かな憧れモデルの時代、それよりも前の最上級のスポーツと小型車の時代など、時代時代によってBMWは別のブランドのような印象を受ける。
1980年代以降、確かな方向性が定まったかのように、技術力とともにめきめきとヴァリエイションを拡大。少しばかり遠くへ行ってしまったような気がしなくもないが、それは「よくできた」完成形に対する無力感みたいなものか。それでもMシリーズなど、正統派スポーツには惹かれるなあ。
■ BMW Z1アルピナ/BMW Z1 Alpina(Alpina roadster)
*BMW CLASSIC*

 どれもがシャープな切れ味で、欠点など微塵も見せない完成度を誇るBMW各車。趣味人というのはアマノジャクなもので、優秀なよくでき過ぎたクルマには、今ひとつ食指が動かなかったりする。いや、走らせて、素晴しいなあ、とは思うのだけれど、乗り手がなにも手助けすることがないというのは、どこか一体感に欠けていてその場だけの感動に終わってしまったりするのだ。
 さてさて、そんなことを思っていたら1台のクルマが思い起こされてきた。BMW Z1。もう忘れ去られているかもしれない、現代のBMW Z3やZ4につながるBMW Zシリーズの祖である。1987年のフランクフルト・ショウで突如発表されたBMWのオープン2座。すっかり上質なサルーン・メーカーになりきっていたBMW、オープンとなると耐候性などいろいろハンディもある。どう解決するのだろう、嬉しくもあったがちょっとした戸惑いも感じたものだ。
 鋼板シャシーにFRP主体のボディ、そのスタイリングも独特だ。近未来のスポーツカーの提案、そんな課題でつくられた意欲的なサンプル。BMW Z1の当時の印象だ。ボタンを押すとドアが下方に下がって、結構な高さの「敷居」の部分に電動で落とし込まれるドアをはじめとして、愉しみは一杯だ。中身はBMW325iのパワートレインそのものだから、走らせての快感が物足りない、というのがBMW Z1の命脈を決めてしまったようだ。
 本家のBMWZ1、そのアルピナ仕様のアルピナ・ロードスターを走らせた。アルピナはさすがスポーツカーの切れ味が強調されていてよかったなー。

64)BMW2002ターボ/BMW2002 turbo

BMW

BMW

BMWは独特のシャープな味わいで、今や泣く子も黙ってしまうような一流ブランドになっている。みんながもて囃すものには、どことなく冷めた目を向けてしまうことが多いが、いくつかの熱狂させられるモデルが存在するのは見逃せまい。クルマ好き目線でいうと、かつての「02」シリーズや「CS」など身近かな憧れモデルの時代、それよりも前の最上級のスポーツと小型車の時代など、時代時代によってBMWは別のブランドのような印象を受ける。
1980年代以降、確かな方向性が定まったかのように、技術力とともにめきめきとヴァリエイションを拡大。少しばかり遠くへ行ってしまったような気がしなくもないが、それは「よくできた」完成形に対する無力感みたいなものか。それでもMシリーズなど、正統派スポーツには惹かれるなあ。
■ BMW2002ターボ/BMW2002 turbo
*BMW CLASSIC*

 BMWのクラシックとして忘れられないひとつが「02」シリーズだ。今日の充実振りからは想像もつかないだろうが、1960年代前後のBMWは低迷のなかにあった。高級高性能車を少量生産する一方、量販のためにBMWイセッタに代表されるミニマム・カーをつくったが、世の中の変化には追いついていない状況にあった。そんななか、救世主のように登場したのがBMW「02」シリーズであった。
 BMWにとって初めての本格的量産小型車というだけでなく、今日のBMWにつづく上質な生産クウォリティを感じさせたのが大きな勝因だった。グラス・エリアの大きなクリーンなスタイリングも好感であった。4ドアが基本であったが、コンパクトな印象の2ドア、「02」シリーズがより大きな人気であった。のちにBMW3シリーズのベースとなり、しだいに上級の5シリーズ、7シリーズと展開していったBMW発展のはじまり、である。  ドイツものらしく、おなじボディに1.6L、1.8L、2.0Lのエンジンを搭載し、BMW1602/1802/2002とラインアップ。それにインジェクションを付加したBMW2002tii、さらにはターボ・チャージャ付のBMW2002ターボは、それそ別格の人気を得た。スタイリッシュでまとまった小型サルーン、それにターボ・パワーなのだから、まさしく「一粒で二度おいしい」。
 初期のターボ量産車であるBMW2002ターボは、ドカーンと効くターボ・パワーが懐かしく、また歴史上のエポックという点でも誇らしい。メーカー自身のてでドレスアップしたかのごとき外観とともに、忘れられない1台だ。

63)ロータス・エスプリ・ターボ

Lotus

ロータス

コーリン・チャプマンという人物は、佳き時代のクルマ立志伝中の人物。学生時代、ガール・フレンドの父上のガレージを借りてはじめたクルマづくりからスタートし、ロータス社を興し、いくつものエポックメイキングなモデルを送り出し、F1コンストラクターにまで登り詰める。まさしく、クルマ好きの描く夢をいくつも実現してみせた。
 そうした背景もあってか、クルマ好きはロータス車をこよなく愛好し、少なからぬ尊敬を抱いてしまう。初期の意欲作、ロータス(オリジナル)エリートにはじまり、エラン、ヨーロッパといった傑作を残し、エスプリでスーパーカー世界にまで躍り出る。チャプマンの急逝を以ってひとつの時代は終わり、世情の変化もあってしばらく不遇の時代を過ごすことになるが、ロータス・エリーゼでふたたびクルマ好きのアイドルの座を得て、今日に至っているのはご存知の通り。スーパー・セヴンというロータス由来の永遠の1台も含め、その存在は大きい。
■ロータス・エスプリ・ターボ/Lotus Esprit turbo
*LOTUS CLASSIC*

 それにしてもロータスは役者揃いであった。当時からエポックメイキングなクラシックとして認識されていたロータス・(オリジナル)エリートをはじめとして、エラン、ヨーロッパ、コルティナ、エスプリ、そしてセヴンと並べてみると、どれもがスポーティで面白いクルマ、という以外あまりに広範囲なのに驚くほど。だって、スポーツ・クーペありオープンあり、四角いサルーンあり、さらにはスーパーカーまであるのだから。これが、ロータスという小さなメーカーから次々につくり出されたものか。いや、そうした小さく意欲的なメーカーだからこそ、なし得たことかもしれない、と理解したのだった。創始者コーリン・チャプマンの生き様を見るに付け、なるほどと納得するとともに、いまさらに貴重なブランドと感じ入るのだ。
 さて、そのスーパーカー部門に入るロータス・エスプリ。1970年代も後半になるとクルマには様々な規制が加えられるようになり、それに石油ショックもあって「ライトウェイト」を売り物にしてきたロータスは、その取り柄を失うのではないかと危惧された。それを察知してかいち早くチャプマンは上級移行によってそれをクリアしようと、(二代目)エリート、エクラ、そしてこのエスプリを登場させたのだ。
 しかし基本はバックボーン・フレーム+FRPボディという、かつてのロータスの手法を踏襲、エンジンはジェンセン車のためにつくった直列4気筒DOHC2.0Lとあっては、スーパーカーというにはいささか心許なかった。1980年になってエンジンを2.2Lに拡大して、さらにターボ・チャージャを付加したロータス・エスプリ・ターボをラインアップして、ようやく面目を保ったのであった。

60)いすゞ117クーペ

ISUZU

いすゞ

1993年に乗用車から撤退してしまったが、いすゞというブランドは、いくつかのモデル名とともに、クルマ趣味人にとっては忘れることのできないものだ。いうまでもなくいすゞ・ベレットGT/GTR、いすゞ117クーペはその双璧というもので、バスや消防車好きにはいすゞTX/BXなどという、お気に入りの名車があったりそれぞれに大きな存在だ。  わが国の自動車メーカーとして長い歴史を持ち、戦後は英国ヒルマン車をノックダウン生産するところから、ベレル、ベレット、フローリアン、ジェミニ、アスカといったモデルを送り出す。いすゞ117クーペやピアッツァは、フローリアン、ジェミニのウロアを利用した派生モデルだ。世に出なかったけれど、いすゞMX1600というミドシップ・スポーツカーはいま見ても欲しくなるスペック。それに象徴されるように、かっちりとしたつくりと技術力がいすゞの魅力だった。
■いすゞ117クーペ/Isuzu 117 coupe
*ISUZU CLASSIC*

 いすゞ117クーペはその存在感において、わが国の自動車史においてもひとつのポジションを得ている。イタリアのカロッツェリアでデザインされた美しいボディをそのまま生産モデルとして手づくりする。そのために、デザイナーとは別にコーチビルダーを日本に呼び寄せて工法を学んだ、などという話は発展途上にあったわが国産メーカーの意欲を感じさせるものだ。
 そもそもカロッツェリアとはクルマをデザインするだけでなく、そのデザインをそっくりクルマとしてつくり上げてしまう能力を持っていた。だから、ショウなどに展示されるプロトタイプはもとより、ときに生産までを受け持ったりしたりもした。デザイナーのアイディアをきっちり具現化して、ピュアでスタイリッシュな「作品」というようなショウモデルは、そうしたカロッツェリアのビルダー部門の職人技のみせどころ、というものだ。
 閑話休題、いすゞ117クーペは「いいクルマ」であった。とにかく当時のできることを惜しみなく注ぎ込んでつくられたクルマ。商品としてのクルマではなくて、モノづくりを優先してつくられた印象が漂うからこそ、貴重なものとして映るのだ。われわれが心惹かれるクルマ、そのキイワードがそこにあることをいすゞ117クーペに感じるのだ。

59)ホンダNSX/Honda NSX

Honda

ホンダ

ホンダがメーカーとしてとても興味深いものだ、と思ったのはその会社のなりたち、本田宗一郎さんというカリスマの存在だけでなく、「社風」そのものが情熱的であるということを直感していたからだろう。若かりし頃、注目すべきはソニー製品、カメラはオリンパス、クルマだったらホンダが面白い、などといっていたものだが、解る人は解ってもらえよう。ホンダSシリーズ、NやZといった「軽」、そしてシビックという流れは、そのまま自動車を取り巻く環境の変化を思わせる。それにしても、ホンダが大メーカーになるに連れて、クルマ好きのことなど考えてくれなくなった、とホンダ党の友人某は嘆いたものだが、CR-X、ビート、NSXなど時機をみては、かつての片鱗を伺わせる。
■ホンダNSX/Honda NSX
*HONDA CLASSIC*

 クルマにはいろいろな価値があるけれど、ホンダNSXもまた永遠に残しておくべきひとつとして忘れられない。マーケットのニーズに従って合理的に設計、コストを下げて量産し、商品として高い価値を持たせたクルマが多いなか、その真逆をいっているかのような印象を与えるのが、ホンダNSXであった。
 軽量であるためにアルミニウムを多用し、そのための専門工場までつくったという話は後世まで語り草として伝えられるにちがいない。2005年の生産終了後もレストレーションに対応する「リフレッシュ・プラン」なるサーヴィスを行なうなど、生まれながらにエポックメイキングな存在を目指し、それが継続されているのは素晴らしい。
 誕生時にそれを特集したヴィデオ・マガジン制作に関わったことで、じっくり観察し取材した。基本的にはフェラーリ328GTBが下敷きになっているようにみえるが、実際の「モノ」としての完成度は遥かにお手本を凌駕している。まさしく、職人の手づくりによるフェラーリに対し、かっちり機械で基本をつくり、それに職人技を添加したようなホンダNSXは大資本ならではの力を見せつけるかのようであった。どちらがいい、悪いではなく、両方を選ぶことのできる豊かさを感じたものだ。
 美しいなかにちょっとしたデザイナーのワンポイントを注ぎ込んだフェラーリに対し、「単なる美人は撮りにくい」と評したのはクルマに期待するもののちがい、というものだろう。

58) ホンダS600

Honda

ホンダ

ホンダがメーカーとしてとても興味深いものだ、と思ったのはその会社のなりたち、本田宗一郎さんというカリスマの存在だけでなく、「社風」そのものが情熱的であるということを直感していたからだろう。若かりし頃、注目すべきはソニー製品、カメラはオリンパス、クルマだったらホンダが面白い、などといっていたものだが、解る人は解ってもらえよう。ホンダSシリーズ、NやZといった「軽」、そしてシビックという流れは、そのまま自動車を取り巻く環境の変化を思わせる。それにしても、ホンダが大メーカーになるに連れて、クルマ好きのことなど考えてくれなくなった、とホンダ党の友人某は嘆いたものだが、CR-X、ビート、NSXなど時機をみては、かつての片鱗を伺わせる。
■ホンダS600~/Honda S600~
*HONDA CLASSIC*

 熱心なホンダSオーナーの友人が「HTCCクラブ結成35周年」というのに、おめでとうを言ったのが2010年だから、もうすぐ40周年。ホンダS500にはじまり、S600、S800とつづくホンダASシリーズは、それこそ一生ものになるほどに長きにわたって愛好されている。HSCCこと「ホンダ・ツウィンカム・クラブ」だけでなく、英国をはじめ海外にもいくつかのクラブが存在するほど。イノウエも英国のサーキットで遭遇したり、英国ウェールズの片田舎、蒸気機関車撮影に行った先で、偶然にレストレーション作業に勤しんでいるクルマ好きのガレージにホンダS800を発見したりして驚いた。英語版の「e-books : Honda S500、S600、S800 by Koichi INOUYE」(インターブックス)として、翻訳出版されているのも、なるほどというところ。
 なにはともあれ、1Lにも満たない小さなエンジンにDOHCメカニズムをはじめとして持てる技術をすべて注ぎ込んだような姿勢は、一生ものとして所有するに値うる魅力の原点。のちのちのホンダNSXに通じる「ホンダイズム」の発露というものだ。一時期所有していたり、1台をレストレーションする過程をつぶさに追いかけてみたり、いろいろ楽しませてもらった。ホンダらしいアイディアも凝らされていて、今なお側に置いておきたくなるような、まさしく趣味対象だ。
 そうだ、ホンダS600クーペの得もいわれぬスタイリングは、BMW Zクーペ、ジャガーXK120fhcなどと並んで、「傑作」としてじわじわ味が出てくるひとつとして注目、ということを付け加えておこう。

56)オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅱ

Austin-Healey

オースティン・ヒーリー

ラリイなどで活躍していた根っからのスポーツカー好きのヒーリーさんが1952年のロンドン・モーターショウに展示した「ヒーリー・ハンドレッド」。オースティンのコンポーネンツを使ってつくり上げたそのスポーツカーは結構な注目を浴びていた。その人垣のなかからひとりの紳士が進み出て、手を差し伸べてきた。「よし、私のところでこれをつくろう!」その紳士こそオースティンのボス、レオナルド卿。「オースティン・ハンドレッド」のエンブレムはその日のうちに「オースティン・ヒーリー」に変えられ、オースティン;ヒーリー100として生産、販売に至る、というオースティン・ヒーリーのはじまりの「物語」は幾度となく語られてきた。イノウエもヒーリーさんの子息であるジェフリイさんから直接伺った真実とともに(「オースティン・ヒーリー、英国の愉しみ」草思社)紹介した。
 まさしく、ヒーリーさんのヴェンチャー企業が成功した、ということか。オースティン・ヒーリーというブランドは、「カニ目」にはじまるスプライトと「100」の後継「ビッグ・ヒーリー」とで華麗な15年ほどの歴史を刻んだのだった。
■オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅱ/Austin-Healey Sprite Mk-Ⅱ
*AUSTIN-HEALEY CLASSIC*

 「カニ目」のスプライトとして誕生したオースティン・ヒーリー・スプライトは、いきなり大きなヒット作となった。1958年に登場するや、4年足らずの間に5万台近くを生産したのだ。これは当時の2シーター・スポーツカーとしては画期的、といえるほどであった。これは、ちょっとばかり不幸な成功、でもあった。というのは、このカテゴリイにマーケットがあると読んだBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレイション)は、モデルチェンジしてもっと量産しよう、と決断するのだ。そうして誕生したのが「Mk-Ⅰ」がチェンジしたオースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅱ。さらに、加えて、もっと量販すべくBMC傘下のスポーツカー・ブランド、MGでMGミジェットとしても発売するのだから徹底している。フロント周りその他を少し変更して、MGブランドとした、バッジを変えたことから「バッジ・エンジニアリング」という言葉の所以である。付け加えておくと、したがって、スプライトはMk-Ⅱの時にミジェットはMk-Ⅰを名乗ることになる。
 すっかり万人好みの顔つきになっているけれど、中身はほとんど「カニ目」と変わってはいない。したがって、ぜんぜんスーパーではないけれどシンプルでリッチなスポーツカー・テイストが備わった、コンパクトな佳品、という印象が残る。

54)デイムラー・ダブル・シックス

Jaguar

ジャガー

ジャガーは戦後間もなく送り出したジャガーXKシリーズ・スポーツカーの成功で、その基礎をつくり、われわれ世代には上質で英国的なサルーン、スポーツカー・ブランドとして認識されていた。ウッドと本革のインテリア、という言葉に象徴される英国車らしさは、ジャガーのテイストとも共通するものだ。
 ずいぶん前のことだが、ジャガーの工場と工場に併設されている博物館を見学したことがある。クラフツマンシップ、それこそレザーとウッドの使い方など、予想していた通りの上質のつくり方が解った。ジャガーXタイプを1週間にわたって駆り出し、英国取材のアシに使わせてもらったりもした。やはり英国でのジャガーは相応のステイタスがあり、誇りでもあることを感じた。やはりジャガーはなくなってもらっては困るブランドにちがいない。
■デイムラー・ダブル・シックス/Daimler Double-Six
*JAGUAR CLASSIC*

 なにを隠そう、1993年にデイムラー・ダブル・シックスが生産を終えたとき、どうしても経験しておきたくて手に入れた。いままでで一番高価な買い物、であった。イノウエにとって「バブル」といえば、このダブル・シックスだったのかもしれない、と思い返してそんな気がしたりしている。
 しかし、ダブル・シックスは濃密な時間を提供してくれた。走っていると、クルマがひたひたと語りかけてくるのである。まさしく「思考の場」にもなってくれた。レザーの香りに囲まれて、ほとんど往復運動の感じられない、そう、シルクの回転をするV12気筒エンジンを体感できるシアワセをつくづく感じ入っていた。いくつものV12気筒を経験したけれど、ダブル・シックスのエンジンほど滑らかなものはない。それを、1970年代早々につくりあげていたことにも感動する。
 ただ、目に見えて減っていくようなフュエル・メーターの針は、貧乏性のイノウエには耐えきれなかったようで、ついに持ちきれなくなって友人のもとへと嫁がせた。いま以って、街で出逢うと嫉妬してしまうクルマ。「デイ様」は永遠の憧れなのだ。
(2015-01-28追加)

 さてさてジャガー「Mk2」のひとつとして、ジャガー340サルーンを撮影した。ベージュのボディカラーも英国的でしっとりとしていたが、全体のつくり、たとえばウイングの峰にあるサイドランプ上の小さなモールや後ドアの切り欠き部分の丸みなど、細かい部分のひとつひとつに「綺麗だなあ」と嘆息がつづいた。もちろんドアを開けば磨き上げられたウッドと本革のインテリア、その佇まいにすっかり虜になってしまうのだった

52)シトロエンHトラック

Citroen

シトロエン

フランス車というといまでこそ、プジョーもルノーもシトロエンもしっかり認識されているし、逆にいうとほとんどその3ブランドに集約されてしまっている。そして結構広く浸透しているのだが、ひと昔前までは、フランス車はよほどの好事家のもの、という感があった。それは劣悪なわが国の環境(高温多湿、渋滞の多い道路など)のなかでは、当時のフランス車は住みにくかったし、だからか、なかなかフランス車をきっちり面倒みてくれるところも少なかった。いや、そうした環境にもかかわらず、フランス車は魅力的ではあった。かつてシトロエンCX、CX、DSと3台を経験し、どうしてフランス人はあんなに普段の生活に使いこなしているのだろう、とちょっとばかり嫉妬したイノウエ。もう一度シトロエンDSとの暮らしを、などと思わせるのだから、困ったものである。
■シトロエンHトラック/Citroen H
*CITROEN CLASSIC*

 一時期シトロエンHトラック(日本以外ではHヴァン)を2台も所有していたなどというと、信じてもらえないかもしれないが、工具会社の販売促進、出張販売の手伝いをしていて、全国の工房のようなところを巡回するのに、シトロエンHトラックをそれ風に仕立てて用意したのだった。まだ「宅急便」のトラックなど出現する前、荷室を立って歩ける普通免許で運転できるトラックはシトロエンHトラックしかなかったのだ。しかし、シトロエンHトラック、あの図体にしてエンジンはディーゼルの1.6L。3段ギアボックスで、アクセル・ペダルを床まで踏み込んでもせいぜい100km/h。エアコンなどあろうはずもなく、汗をかきかき夏の東名高速を苦行難行で走ったりしたものだ。
 しかしあのキャラクターは素晴らしい。立ち寄った工房では、いつもの商用車では愛想のなかったスタッフがこぞって見に来てくれる。こんなクルマで来てくれたんだったら、少しは売り上げに協力しよう、などと業績アップにずいぶん貢献してくれた。しかし、エンジン・ブロウするは、走行距離はとんでもなく伸びてしまうは、さらにはディーラーだったS自動車も部品その他で音をあげるしまつで、結局、シトロエンHトラックとのドラマティックな日々は終わったのだった。
 写真の「Power House」はパワーリフティングの有名ジムで、バーベルなど大量の荷物を載せて試合会場などに出張。ここでも宣伝効果が大きかった由。

45)ロータス・エリーゼ(111)

Lotus

ロータス

コーリン・チャプマンという人物は、佳き時代のクルマ立志伝中の人物。学生時代、ガール・フレンドの父上のガレージを借りてはじめたクルマづくりからスタートし、ロータス社を興し、いくつものエポックメイキングなモデルを送り出し、F1コンストラクターにまで登り詰める。まさしく、クルマ好きの描く夢をいくつも実現してみせた。
 そうした背景もあってか、クルマ好きはロータス車をこよなく愛好し、少なからぬ尊敬を抱いてしまう。初期の意欲作、ロータス(オリジナル)エリートにはじまり、エラン、ヨーロッパといった傑作を残し、エスプリでスーパーカー世界にまで躍り出る。チャプマンの急逝を以ってひとつの時代は終わり、世情の変化もあってしばらく不遇の時代を過ごすことになるが、ロータス・エリーゼでふたたびクルマ好きのアイドルの座を得て、今日に至っているのはご存知の通り。スーパー・セヴンというロータス由来の永遠の1台も含め、その存在は大きい。
■ロータス・エリーゼ(111)/Lotus Elise
*LOTUS NEW*

 現代、ロータス・エリーゼほどクルマ好き専用、と思わせるクルマはない。クルマはパワーがあることと同じくらい軽量、コンパクトなことが走りに加担する。それをそのまま実現してみせてくれているのがエリーゼだ。  軽量であるためにアルミ系の素材を航空機技術を応用して、接着剤によって組み立てたシャシー単体を見たのが1995年のフランクフルト・ショウでであった。そのシャシーに、ロータスお得意のFRPボディを組み合わせて、エリーゼは形づくられている。ホイールベース2300mmのミドシップ、全長3726mm(日本の届け出値は3800mm)という数字は、実に引き締まったいいプロポーションをつくり出す。もちろん、走ったときの取り回しのよさはこのサイズならでは、というところ。  1999年、英国でエリーゼを堪能する機会を得た。嬉しいことに、半日掛けてのちょっとしたドライヴ旅行に出掛けさせてもらったのである。英国郊外のなだらかな丘をアップダウンするワインディング・ロードは、実に走らせる愉しさを満喫させてくれた。途中のバーにエリーゼを停めて撮影し、昼食を摂ったのだが食べている間も、窓の外のエリーゼを眺めては早くまた走り出したいような気分にさせられる。とにかく、走らせたくなるクルマ。クルマ好きを虜にしてしまう類のクルマなのであった。  いいところずくめのようなロータス・エリーゼ、難点があるとしたら、少しばかりの室内の狭さと高価なことか。前者はルーフが付けられた状態での乗り降りが少し面倒なだけで、乗り込んでしまえば却ってそのタイト感が嬉しくなる。小気味よい走りだから、どこまでも走っていたくなるのは当然の帰着というもの。いや、実際にロータス工場に戻り着いたとき、なんと名残惜しかったことか。 (2015-01-14追加)

43)マツダR360クーペ

Mazda

マツダ

思い返してみれば、マツダは独自の規範で時代に名を残す意欲的なモデルをいくつも残してきた。いうまでもなくその筆頭は、マツダ・コスモ・スポーツにはじまるロータリイ・エンジンを搭載した一連のスポーツ・モデルだ。ファミリア・ロータタリー・クーペ、RX-3サバンナ、RX-7、RX-8とつづく系譜は、わが国の自動車史においても独自のポジションを保っている。このなかにも、前輪駆動のRX-87ルーチェ・ロータリー・クーペなどという隠れた意欲作も含まれる。
 そんなマツダだが、昨今はまったくちがう顔を見せている。マツダ・デミオのヒットはご同慶だし、基本に忠実なスポーツカー、ユーノス/マツダ・ロードスターの存在も忘れられない。
■マツダR360クーペ/Mazda R360 coupe
*MAZDA CLASSIC*

 マツダ、当時の東洋工業が送り出した初めての乗用車。ミニマム・サイズの軽自動車ではあったけれど、そこに盛り込まれたメカニズム、スタイリングはちょっと捨て置けない逸品であった。すでに三輪トラックをはじめ自動車メーカーとして着実な歩みをみせていたマツダだけに、乗用車進出に対しても並々ならぬ意欲を注ぎ込んだ、そんな印象だった。
 ホイールベース1760mm、全長3m足らず、エンジン排気量は356cc。現代の「軽」よりふた回りはコンパクトなマツダR360クーペだが、グラス・エリアの大きなスタイリングは、当時の小型車のなかにあってひときわ垢抜けていた。多分型代をはじめ生産コストは掛かっているだろうに、と想像させる。リアに搭載されるエンジンにしてもそうだ。ライヴァルたちがコスト的に優位な2ストロークばかりだったときに、4ストローク空冷90°V2気筒を採用した。それもアルミ合金やマグネシウム合金まで多用して軽量化するなど、贅沢な素材を使う。ほかにもドライ・サンプ、吸入ガス予熱など、小さなボディに似合わず、いかにも技術志向のブランドを印象づけたのであった。トルク・コンヴァーターを用いたA/Tの採用も「軽」で初のものだった。
 まだイノウエが小学生の頃、わが家の初の乗用車がマツダR36クーペであった。2+2とは名ばかり、硬い荷台のようなリアに押し込まれて、いろいろなところに連れ出された。トーション・ラバーによる四輪独立懸架は、結構ソフトでユラユラと走っていたのを憶えている。
(2015-01-14追加)

37)MG B GT

M.G.

MG

MGという名前は、ヴェテランのクルマ好きにとっては憧れのブランドとして、強く印象に残っている。1924年にセシル・キムバーというひとりのクルマ好きによって設立され、MGとはモーリス・ガラージの頭文字だから正しくはM.G.と書くんだ、などという話は先輩から繰り返し聞かされたものだ。MGA、MGB、MGミジェットといった身近かなオープン・スポーツカーは、クルマ趣味入門の格好のアイテムとして、広くその名が知られた。
 なにはともあれスポーツカーの典型というようなものだから、そのテイストはいまでも変わらぬひとつの「お手本」として大いに尊重されるべきものといえる。MGAの前には「Tシリーズ」と呼ばれる古典的味わいの一連のスポーツカー、のちには「MG」のネームヴァリウを活かして、MGFやMG RV8といったスポーツカーを送り出したりしている。  MGは、戦前のうちにモーリス社に吸収されその一ブランドとなり、さらに1952年~BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレイション)社、1967年~BL(ブリティッシュ・レイランド)社、その後もオースティン・ローヴァ社、ローヴァ社と合併、変更を繰り返し、BMW傘下になったのち、MGはブランドだけがひとり歩きしている。
■MG B GT/MG B GT
*MG CLASSIC*

 トラディショナルなスポーツカー・テイストなどということばを使うとき、そのテイストとして頭に浮かぶのは、MGB。旧き佳き英国スポーツカー。前モデルのMG Aのあとを継ぐが、たとえばシャシーとボディをと一体にしたモノコック構造を採り入れるなどずいぶんと近代化された。1962年に登場して1980年まで、50万台以上を生産し、それこそ英国スポーツカーの代表として世界中で親しまれたものだ。  正しくはM.G. MGB、つまりブランド名がM.G.でモデル名がMGBと、いかにも英国らしい偏屈さがあったりして、それも密かな拘りになったりするようだが、乗り味は実にシンプル。すべてにスーパーというわけではないけれど、五感に対して実に忠実に走り、曲がり、停まってくれる。スタイリングも、特別エキセントリックな部分もなく、スポーツカーらしいものとして誰もが納得するような。それだからこそ世界であれだけの数、売れたのだ。

 英国スポーツカーの典型、すなわちオープン2シーターとして発売当初から人気を得たMGBなのだが、それに1965年に加えられた新たなモデルがMGB GTだ。爽快この上ないオープン・エア・モータリングを捨ててまで、ちょっと側に置いておきたくなるようなスタイリングのクーペにモディファイされたMGB。そのファストバック・スタイルは、のちのちの多くのクルマに影響を与えたにちがいない。たとえば、わが国のフェアレディがフェアレディZに変身したのを、ひと足早く実現してみせた、というような、新しいスポーツカーの形を示唆したようなものでもあったのだ。  当時はあまり表立ってはいなかったが、スタイリングにはイタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナが関与したという。なるほど、いまみても美しい。ホンダS600/S800、BMW Z3クーペなど、オープン・ベースのクーペには傑作が少なくない。MGBでなく敢えてMGB GTという「趣味人的選択」には大いに共感する。 の要るクルマ」と形容したのはウソではない、と実感したのだった。

27)モーリス・ミニ・マイナー

Mini

ミニ

「革新の小型車」/親しめる顔つきのスタイリング/小気味よい走り/精神的拠りどころ多し/長い歴史と高い名声/ひとつの「ミニ・ワールド」の存在
 ワールドという通り、ひとつの世界があり、ミニ自体が細分されることは承知の上で、敢えてミニ全体をまずあげておこう。
 ミニはいろいろ乗ったなあ。一番旧いのは、ミニの「試作車」といわれる848ccから、最終期のモデルまで各時代のモデル、いくつものヴァリエイション、さらにはミニ・ベースの怪し気なスペシャル(それには三輪車もある)まで、ほとんどのミニに乗せてもらった。
 初期のミニは1速が直歯のギアなので、1速でちょろりとスタートして、すぐに2速にシフトアップ、減速もエンジン・ブレーキなど使わずに、前の信号が赤になったらギアを抜いて惰力で走る、などといった旧い英国車の作法は、なんどか英国人の隣りに乗せてもらって教わった。英国車趣味の大先輩、西端日出男さん(元日英自動車)がまったくその通りの運転をされていたのを思い出す。ただの小型サルーンのくせに、ダイレクトなステアリングの感触、クイックな走りはその気になればなるほど愉しかったりする。
■モーリス・ミニ・マイナー/Morris Mini Minor
*MINI CLASSIC*

 ミニ、英国クラシック・ミニはいくつもの美点を持っている。「Bigger inside, Smaller outside、つまり小さな外寸に驚くほどの室内スペース、それを実現するために、エンジンを横置きして前輪を駆動するという「革新」を50年以上前に果たした。その功績は、ミニをして永遠のアイドルに仕立てている。先駆のメカニズムと理論に裏付けられたミニを所有すること、ミニを運転すること、それはちょっと誇らしいことでもあるのだ。
 モーリス・ミニ・マイナー、初期のミニを見て、走らせて感動するのは、もうその時点で充分に完成していた、ということだ。もちろん現代の目で見るとクラシックな香りに満ち満ちてはいるけれど、それでも少し気を使ってやれば、現代の路上をさほど不満なく走ることができる。
 外見にしたってそうだ。ドアのヒンジが露出していたり、ドア・ウィンドウが引きちがいの窓であったり、小さなテールランプだったり、「Mk-Ⅰ」と呼ばれる初期ミニの特徴をしっかり備えてはいるものの、間違いなくミニの形をしている。
 売らんがためにモデルチェンジを繰り返す商品としてのクルマよりも、どこか気高く残しておきたいもののように思えるのは何故だろう。変わらないことは素晴らしい。そのお手本としてもミニは「価値」があるのだ。

25)メルセデスA160

Mercedes-Benz

メルセデス・ベンツ

保育社から「世界の名車」第16巻を上梓した時、メルセデス・ベンツに対してつけた惹句は「自動車の王道を行く/世界の最高であり/スタンダード ―― メルセデス・ベンツ」。いまもそうだが、泰然自若とした雰囲気とともに、つねに注目を集めるブランドである。
 初めてこの世に「自動車」というものをたらしたブランドは、その後もずっと世界のお手本というようなポジションを守り通している。安全とか「エコ」とか、自動車に課せられてくる大きな命題に対しても、慌てて急ぎ過ぎることなくメルセデスならではの規範で対応する。口で言うのは簡単だが、それを長きにわたってつづけている確かさのようなものが、メルセデス・ベンツの真骨頂というものだろう。
■メルセデスA160/Mercedes Benz A160
*MERCEDES-BENZ MODERN*

 それは1998年のこと。いまから15年以上も前のことになるのか、と改めて考えるとちょっと時間の経過の早さに驚いたりしてしまうのだが、その日、1台の小型車を箱根で走らせていた。メルセデス・ベンツの新しい小型車、「Aクラス」である。以前、メルセデス初の「5ナンバー」と話題になったメルセデス・ベンツ190Eに乗った時、あの風格と信頼性のなかにあった憧れのメルセデス・ベンツが、あまりにも身近かにやってき過ぎたようで妙な気持ちになったのを思い出したりしながら、ちょっと試すような気持ちで「Aクラス」のステアリングを握った。
 ワインディングをかなり本気で走ったように憶えている。峠のパーキングに停めて観察した時、フロントのディクス・ブレーキからはうっすらと白煙があがるほど、といえばどれほど痛快な走りでであったかが想像付くだろう。とにかく「Aクラス」はそれでもまったく破綻を見せるどころか、安心感とともに汗をかかせてくれたのだ。メルセデスを見る目が、少し変わった日だった。

23)ランボルギーニ・ディアブロ・ロードスター

Lumborghini

ランボルギーニ

保育社で「世界の名車」シリーズを企画したとき、日本に輸入されているブランド、国産のブランドをすべて採り上げる、というのが目標であった。もちろんランボルギーニも採り上げねばならなかったのだが、例の「ブーム」の折りに輸入元であった「シーサイド・モーター」が1980年に廃業して以来、1984年~ジャクスが名乗りを上げたところで、資料その他もままならず、フェラーリよりもさらに難しい題材であることが解った。
 にもかかわらず、ムックをまとめたのはそれだけ興味があったということだ。ちょうどディアブロが登場したときで、早速にイタリア取材に及び、フェラーリ社との対応のちがいに感激したのを憶えている。
■ ランボルギーニ・ディアブロ・ロードスター/Lamborghini Diabro Roadster
*LAMBORGHINI CLASSIC*

 ランボルギーニ・ディアブロは、たとえばフェラーリF40に近い性能を持ちつつも、スタイリングやV12気筒搭載などのスペックからいって、より好もしい「スーパーカー」だと思えたりする。だいたいが「スーパーカー」というのは基本路上を走るスーパーなクルマという認識だから、レースではからきし使えないディアブロ・ロードスターなどは、まさしくスーパーカーとしかいいようがない。
 それにしても、1台のディアブロ・ロードスターが忘れられない。ディープ・ピンクというようなまろやかなレッド外装に、まばゆいほどの白いインテリア。そうでなくても非日常の存在感を持つディアブロ、そっくりルーフが外せるだけでも魅力倍増なのに、この艶やかなカラーリング。どうせこの種のクルマに乗るならば、これくらい突き抜けてしまう方が潔い気がしたりして。この日本輸入第一号車というロードスター、どんなヒトのガレージにあるのだろうか。

21) ホンダCR-X

Honda

ホンダ

ホンダがメーカーとしてとても興味深いものだ、と思ったのはその会社のなりたち、本田宗一郎さんというカリスマの存在だけでなく、「社風」そのものが情熱的であるということを直感していたからだろう。若かりし頃、注目すべきはソニー製品、カメラはオリンパス、クルマだったらホンダが面白い、などといっていたものだが、解る人は解ってもらえよう。ホンダSシリーズ、NやZといった「軽」、そしてシビックという流れは、そのまま自動車を取り巻く環境の変化を思わせる。それにしても、ホンダが大メーカーになるに連れて、クルマ好きのことなど考えてくれなくなった、とホンダ党の友人某は嘆いたものだが、CR-X、ビート、NSXなど時機をみては、かつての片鱗を伺わせる。
■ホンダCR-X/Honda CR-X
*HONDA CLASSIC*

 フロントは、たとえばアルピーヌA110のフォグランプのように半分飛び出しさせて、丸いヘッドランプを装着。ボディ・カラーだけは少し好みを入れてレモン・イエロウに下半分はシルヴァの2トーン。うーん、いまだに夢見ているお気に入りがある。そう、ホンダCR-X、ただしくはホンダ・バラードスポーツCR-Xは、コンパクトでスタイリッシュなボディが魅力の小型スポーツ・クーペだ。それにしても、絵に描いたようなけれん味のないスタイリング。イタリアの雰囲気を振りまいて、これでホンダのヒュンヒュン回るエンジンが載っているのだから、お気に入りのペットになるような1台。
 じつは、冒頭の「フェイスリフト」をするために1/24のプラモを買い、パテでヘッドランプ部分を埋めたところまでは交錯したのだが……あとはイメージのなかに納めておくがいい、ということなのだろうか。

世界の名車11「HONDA」(保育社)

 もう一冊、シビック以降の乗用車中心のホンダをまとめたのだが、いいクルマになったなあ、という感慨以上のインパクトは湧いてこなかった。登場したばかりのレジェンドなど、静粛至極の走り振りは印象的だったが、ホンダがホンダでなくなってしまった感でいっぱいであった。時代は変わったんだなあ、という思い。いまやクルマ好きのホンダではなくて、世界のホンダになってしまったのだった。

20) ホンダ・シティ・カブリオレ

Honda

ホンダ

ホンダがメーカーとしてとても興味深いものだ、と思ったのはその会社のなりたち、本田宗一郎さんというカリスマの存在だけでなく、「社風」そのものが情熱的であるということを直感していたからだろう。若かりし頃、注目すべきはソニー製品、カメラはオリンパス、クルマだったらホンダが面白い、などといっていたものだが、解る人は解ってもらえよう。ホンダSシリーズ、NやZといった「軽」、そしてシビックという流れは、そのまま自動車を取り巻く環境の変化を思わせる。それにしても、ホンダが大メーカーになるに連れて、クルマ好きのことなど考えてくれなくなった、とホンダ党の友人某は嘆いたものだが、CR-X、ビート、NSXなど時機をみては、かつての片鱗を伺わせる。
■ホンダ・シティ・カブリオレ/Honda City cabriolet
*HONDA CLASSIC*

 数あるホンダ車のなかで、忘れられないもののひとつに初代シティがある。シティそのものもなかなか主張があって面白いものだったが、ピニンファリーナの手を借りたというシティ・カブリオレは、もうひとつのシティ・ターボとともに、クルマ好き脳を刺激する。
 もともとが1.2L級の小型車だから、走らせて痛快というわけではないのだが、いったん幌を降ろして走り出せば、気分は一新されてしまう。ボディ・カラーも12色が揃えられ、たとえばオレンジとかピンクとかエメラルドだとか、お気に入りがいくつもあった。

世界の名車11「HONDA」(保育社)

 ホンダ・スポーツから初代のシティ、特に登場したばかりのシティ・カブリオレまでをまとめた。ホンダS600、S800といった永遠の名作はもとより、シティ・カブリオレやシティ・ターボなど、いまだ忘れられない傑作も含まれている。それよりも、ホンダNや「ステップバン」には苦労した。いまでこそ、愛好家がいて綺麗にレストレイションされたものも少なくないが、当時はちょうどそうした機運もなく、ほとんどが乗りつぶされてしまっていたのだった。

16)フェラーリ288GTO

Ferrari

フェラーリ

クルマ世界のひとつの頂点のブランド。頂点だけにいろいろプラスもマイナスもあるのは当然として、純粋に憧れさせられる存在であるのはまちがいない。われわれが子供の頃にはあまりにも遠い存在で、馴染みもなにもなかったのだが、だんだん広く知られるようになっていまや高価で高性能なクルマの代名詞のようになっている。その過程をつぶさに体験できたのは幸いであった。どこまでも高嶺の花、永遠の憧れであるのはちがいない。逆にいうと、フェラーリのような憧れのクルマがなかったら、貯金する目標を失ってしまうヒトも出てくる、というものだ。
 「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
■フェラーリ288GTO/Ferrari 288GTO
*FERRARI CLASSIC*

 なんでも欲しいフェラーリを1台をあげよう、といわれたらなににする? 若かりし頃の茶飲み話のようだが、そうだなあ、と少し考え込んでフェラーリ288GTOの名前を挙げたことがある。いや、実際に所有して維持できるか、などという現実味は無視したところでの選択。だって、エンジンはV8縦置きだけれど2基のターボ・チャージャでドカーーンと速いし、それでいてスタイリングの美しさ、全体のつくりのよさなど「宝もの」にできる資質の持ち主だ。
 少しばかりアマノジャクのイノウエには、その後にブームの寵児のようになったフェラーリF40に対する、ちょっとした反骨の部分もあるのかもしれない。フェラーリ288GTOの名を挙げ、実際にステアリングを握らせてもらったり、写真撮影をさせてもらったりし、その度に本気で「いいなあ」と思うようになっていった。もちろん、永遠の夢、であるのがいいところなのだが。

14)BMW120i

BMW

BMW

BMWは独特のシャープな味わいで、今や泣く子も黙ってしまうような一流ブランドになっている。みんながもて囃すものには、どことなく冷めた目を向けてしまうことが多いが、いくつかの熱狂させられるモデルが存在するのは見逃せまい。クルマ好き目線でいうと、かつての「02」シリーズや「CS」など身近かな憧れモデルの時代、それよりも前の最上級のスポーツと小型車の時代など、時代時代によってBMWは別のブランドのような印象を受ける。
1980年代以降、確かな方向性が定まったかのように、技術力とともにめきめきとヴァリエイションを拡大。少しばかり遠くへ行ってしまったような気がしなくもないが、それは「よくできた」完成形に対する無力感みたいなものか。それでもMシリーズなど、正統派スポーツには惹かれるなあ。
■BMW120i/BMW120i
*BMW NEW*

 21世紀に入って、それまでわが国のアッパーミドルの市場を分け合っている感のしたドイツ車が、こぞっていろいろなサイズにモデル・レインジを広げてきた。いわゆる「Cセグメント」と呼ばれる市場にBMWが送り出したのが「1シリーズ」。2004年の秋から日本にも登場してきたコンパクトBMWは、その年の乗り較べのなかで一番印象深かった。
 コンパクトなボディに定評のメカニズムを持ち込み、小気味よい走りを実現したBMW 120iを走らせたのだが、ひと口でいえば小さくとも手を抜いていない印象。しかし、小型だと思っていたのは、「3シリーズ」に対する「1シリーズ」というネイミング、きっちり4ドアにして濃密感を持ったスタイリングなどによる、半ばマジックのようなものだとあとで気が付いた。ホイールベース2660mm、全長は4.2m長というのだから、BMWミニなどからするとふた回りも大きくなる。とはいえ、「3シリーズ」よりは確実にコンパクトで、フロントにエンジンをおいて後軸を駆動するコンヴェンショナルなレイアウトをはじめとして、きっちり弁えてこのクラスで解るヒトには選ばれる資質を備えている。
 などと、結構べた褒めしたら、なんのなんの、クーペだのカブリオレだの、無節操にヴァリエイションを拡大してきたのには参った。

12)アウディR8

Audi

アウディ

いまから20年ほど前になるだろうか。ドイツにクルマ好きや専門ショップなどを取材しにいった。その当時の日本市場では、メルセデスとBMWとが人気でしのぎを削って、その少しあとをアウディが追いかけている、というような構図であった。4WDと前輪駆動に特化したブランド、というイメージも強かった。それが、ドイツ本国ではVWは別として、メルセデス・ベンツ、BMWとアウディは人気が完全に拮抗する三つ巴の存在だと訊いて、認識を改めさせられた。クルマ好きが挙ってアウディ、それも「アヴァント」のディーゼル・ターボを個性的にドレスアップして楽しむ、というのが流行のようになっていたのを思い出す。
 趣味としてのアウディ、アウディTTやアウディR8という解りやすい憧れモデルをはじめとして、いまを楽しむ進化をつづけるブランドのようだ。
■アウディR8/AUDI R8
*AUDI NEW*

 「スーパーカー」というとどこか現実味のない、一部のヒトにとっては絵空事のように思われている節がある。そうはいっても、スーパーな性能は有無をいわせず人々を魅了するものであり、またその性能を具現化したようなスタイリングは大きな憧れを抱かせる。生真面目なヒト向けのスーパーカー。アウディR8を眺めながら、そんな印象を持った。
 エンジンやシャシーは傘下にあるランボルギーニ・ガヤルドと共用する、といってもブランドはアウディ。のちのモデルには「Sトロニック」と呼ばれる「DCT」も導入され、先進メカニズムで武装した完成形に近いスーパーカーとして、その存在感を大いに高めている。
 2650mmのホイールベース、全長も4.4mと決して小さくはないのだが、多くのスーパーカーにありがちな「大きく見せる」ところがなく、むしろコンパクトにさえ感じさせるのは、そのスタイリングのおかげだろうか。機能優先のドイツ車にあって、エンジンの覗けるリアの処理やサイドのアクセントの入れようなど、インパクトの大きさは備えつつもイタリアンとは異なる感覚が独特だ。

■IMPRESSIONS ドイツ流スーパーカー:Audi R8 5.2FSI quattro
 アウディR8 5.2FSI quattroを走らせた。8000r.p.m.で525PSを発揮するという、高回転、高出力の直噴(FSI)V10エンジンを搭載したミドシップ。まあ、どこまでもしゅんしゅん回るエンジンは、気がつけば飛んでもない高速へと運んでくれる。アウディお得意の4WDメカニズムを持つスーパーカーは、まったく破綻の気配すら見せない走り振りを提供してくれた。実際にメーターが示している速度の半分、というくらいにしか感じないのは、剛性をはじめとするしっかりとしたメカニズムの充実振りの現われ、というものか。スーパーカーというと、それに相応しいドライヴァの技量を必要としたものだが、このアウディR8は誰にでもスーパーな性能を提供してくれる魔法の絨毯のようだ。
 確かな手応えとともに、どこか現実味のない不思議な感覚とともに、少しばかり名残惜しいアウディR8のコクピットをあとにしたのだった。

10)アルピーヌ・ルノーA110ベルリネット1600SC

Alpine

アルピーヌ

フランスのリアル・スポーツカー、アルピーヌ。その代表たるA110ベルリネットの艶やかなスタイリングは、有無をいわせぬ魅力を湛えている。嬉しいことに、アルピーヌの生みの親であるジャン・レデレさんにインタヴュウさせていただいたり、工場見学をさせていただいたりして、「クルマ好き」のつくったブランドに注がれた情熱の大きさ、また最終的には大企業に呑み込まれてしまう悔しさなど知ることができた。レース会場でカロッツェリア・ミケロッティのボス、ジョヴァンニ・ミケロッティと出逢った話など、当時のクルマ世界についても興味深い話を訊かせてもらえた。
 1960年代を頂点に、まさしく佳き時代のクルマの真ん中に存在する。後年はルノーの一ブランドとなるが、たとえばルノー・スポール・スピダーなど、アルピーヌあっての産物だった。
■アルピーヌ・ルノーA110ベルリネット1600SC/Alpine-Renault A110-1600SC
*ALPINE CLASSIC*

 アルピーヌA110はひと目見たその日からもう夢中にさせられてしまうような存在。そのスタイリングに軽量、強力パワーの持ち主とあっては注目しないわけにはいかない。初めて乗せてもらったのは、ベイシック・モデルたる1300VCであったが、それでも充分以上の走りに、改めて軽量のありがたみを感じたものだ。いつかは欲しいクルマのリストの常連、というようなものであったが、近しい友人のガレージにあるや熱心な愛好家がいてくれることで満足の状態。
 アルピーヌA110シリーズのひとつの頂点1600SCなど、所有しているだけで大きな満足感が得られよう。走らせると、アルピーヌはいつも乗り手を挑発してくる。その緊張感はなにものにも代えがたい魅力。オーナーのみが知る喜びではあるまいか。

「ALPINE A110」2000年(経林書房)

 アルピーヌの集大成のような本つくらない? という嬉しいお誘いをいただいてまとめた一冊。「ALFA156」などとシリーズをなす装丁だが、ページ数は口絵をまじえると300頁に及ぶ大作となった。レデレさんへのインタヴュウをはじめとして集められるだけの資料を網羅した。新宿区箪笥町にあったいまはなき出版社への思いもあって、忘れられない一冊。

05) Alfa-Romeo Giulia 1300GT JuniorZ

Alfa-romeo

アルファ・ロメオ

イタリア車が面白い、そのきっかけはアルファ・ロメオだったろうか。1960年代までのクルマ趣味において、アルファ・ロメオはイタリアンの主流であった。五感にダイレクトなスタイリング、サウンド、走り振りなど、誰が見ても格好よかったし馴染めた。周囲にアルフィスタが多く居たこともあって、身近かではあったが所有するまでにはいたらなかった。
 それにしても、アルファ・ロメオは多彩だ。クーペ・ボディは時代時代でどれもがスタイリッシュだったし、それにスペシャル・ボディというべきカロッツェリアメイドの「スペチアーレ」モデルが加わる。スパイダーも同様。持てることならミニカーのごとくに時代ごとにそろえたくなる。それだけでなく「ベルリーナ」、サルーン・ボディがこれまたなかなかの個性派揃い。
 ジゥリア・スプリントをはじめとして、いまでも街ですれ違うと「いいなあ」と思わせるアルファ・ロメオは少なくないし、アルファ156をはじめとする一連のモダンカーもひと味ちがうクルマ生活を与えてくれる。
■ アルファ・ロメオ「ジュニアZ」/Alfa-Romeo Giulia 1300GT JuniorZ
*ALFA-ROMEO CLASSIC*

 数あるアルファ・ロメオのなかで、アマノジャクな選択として採り上げるのは「ジュニアZ」だ。いうまでもない、カロッツェリア・ザガートのつくり出した、スタイリッシュなボディが魅力のクーペだ。中身はジウリアのクーペだが、まるでショウに飾られたモデルそのままのようなボディは、量産品とはひと味ちがったエレガントさをみせる。
 綺麗なバラにはとげがある、というのか、ルーミイな室内は夏など温室になってしまうとオーナーは嘆いていたが、少しの我慢を差し引いても余りある魅力。眺めているだけで、うっとりとした時間が過ごせる類の美しさ、なのだ。
 もしも、もしもだが「ジュニアZ」などを手にしてしまったら、もう永遠に離れることなどできなくなってしまう。フロント周りに、大きなサイド・ウィンドウの部分に、そしてかっちりとエッジのたったリアに至るまで、とにかく、チャーミング・ポイントの多い飽きることのないスタイリング。「一生の宝」ということになってしまうはずだ。

2)アバルト「エッセ・セッセ」

Abarth

アバルト

イタリアの「火の玉ブランド」と名付けたアバルトは、もっとも興奮させられるブランドのひとつといっていい。小さいくせにスタイリッシュ、排気量も小さいくせにカリカリのチューニング。ボディはカロッツェリア・ザガートがアルミで丹念にこしらえ、エンジンは「アバルト・マフラー」でとどめを刺す、なにはともあれ好き者が好き者のためにつくったようなブランドなのだ。とても繊細で「飼い馴らしにくいサソリ」といわれたアバルト、本当にそんなに大変なのか、と実際に飼っていたりもした。その購入、メインテナンス、維持、いろいろ勉強になったなあ。懲りずに、いまも欲しいクルマの最右翼。
■アバルト「エッセ・セッセ」 /Abarth SS
*ABRTH NEW*

<アバルト:イタリアの「火の玉ブランド」と名付けたアバルトは、もっとも興奮させられるブランドのひとつといっていい。小さいくせにスタイリッシュ、排気量も小さいくせにカリカリのチューニング。ボディはカロッツェリア・ザガートがアルミで丹念にこしらえ、エンジンは「アバルト・マフラー」でとどめを刺す、なにはともあれ好き者が好き者のためにつくったようなブランドなのだ。とても繊細で「飼い馴らしにくいサソリ」といわれたアバルト、本当にそんなに大変なのか、と実際に飼っていたりもした。その購入、メインテナンス、維持、いろいろ勉強になったなあ。懲りずに、いまも欲しいクルマの最右翼>とイノウエは書いているけれど、いまや、「アバルト」といって、かつてのオリジナル・アバルトともいうべき一連のクルマよりも、速いフィアットとしてのアバルトを思い浮かべるヒトが圧倒的であろう。
 だからこそ、オリジナル・アバルトの魅力を語りたくもなるし、それに拘る熱心家の存在も貴重になるのだが、一方で、現代のアバルト・アレインジメントの巧みさにも興味ないわけではあるまい。

IMPRESSIONS アバルトに乗る粋:ABARTH esse-sees
 現代のアバルトたる小さな「サソリ群」は、フィアット500ベースではあるものの,かつてのようなフィアット・アバルトではなくアバルト単体の名前になっている。「esse-sees」はSSをエスエスと書くが如しで、「エッセ・エッセ」と読む。乗れば速いぞー、という感想になるに決まっている、とお思いだろうが、その通りだ。その通りだけれど、かつてのアバルトの名前から想像するようなじゃじゃ馬を想像すると、あまりによく躾けられているのに拍子抜けしたりする。
 とはいえ,コンパクトなボディにひと回り高いチューニングのパワーユニットの組み合わせは、もう愉しい走りの王道というようなもの。それに加えて,このアバルトSSの場合は愛嬌あるボディ・スタイリング、さらには飛び切りのボディ・カラーまで加わっているのだから,クルマが好きなんですよ、というだけでなく、個性的な乗り手のセンスまでが主張できる。
 現代のフィアット500はそのキャラクターから、おそろしい勢いで繁殖している。若奥様の格好の足、という印象が定着しつつあるが、それにクルマ好き要素を加味するとアバルト、解りやすいけれど、なかなか魅力的な選択肢ということができる。

1)アバルト

Abarth

アバルト

イタリアの「火の玉ブランド」と名付けたアバルトは、もっとも興奮させられるブランドのひとつといっていい。小さいくせにスタイリッシュ、排気量も小さいくせにカリカリのチューニング。ボディはカロッツェリア・ザガートがアルミで丹念にこしらえ、エンジンは「アバルト・マフラー」でとどめを刺す、なにはともあれ好き者が好き者のためにつくったようなブランドなのだ。とても繊細で「飼い馴らしにくいサソリ」といわれたアバルト、本当にそんなに大変なのか、と実際に飼っていたりもした。その購入、メインテナンス、維持、いろいろ勉強になったなあ。懲りずに、いまも欲しいクルマの最右翼。
■アバルト1000ビアルベーロ /Abarth 1000 bialbero
*ABARTH CLASSIC*

 「ビアルベーロ」とは「ビ・アルベーロ」、つまりは2本のカムシャフトを意味する。いうまでもない、クラシック・アバルトの象徴というべきDOHCエンジンのことだ。クルマは小さい方が走って小気味よい場合が多い。体にフィットし、まるで自分がパワーの塊になったかのような気分で走れたりする。アバルトは最初はフィアット車を少しチューニングして、速い小型スポーツを謳っていたのだが、レースで勝利を収めるべく次第にエスカレート。ついには、750クラスや1000、1300クラスの定勝マシーンにまで昇華する。エンジンも、ブロックこそフィアットだが、ヘッドからほとんどを新調。カリカリのチューニングに仕上げる。
 ボディの方も魅力的なスタイリングのカロッツェリア・ザガート製アルミ・ボディをしつらえる。つまり、エンジンよし、スタイルよし、さらにいうなら数多くのレース勝利を記録したヒストリイもよし、小粒だけれも侮れない「永遠のアイドル」というわけだ。
 その最右翼、アバルト1000ビアルベーロ。所有することは大きな誇りになる。

IMPRESSIONS アバルトに乗る粋:ABARTH 1000 bialbero
 軽量ボディに強力エンジン、旧き佳き時代の速いクルマの正当派というべきものだ。唯一トラディショナルなセオリイに反するといえば、リアのエンジン、リア・ドライヴということか。それにしてもカリカリ・チューンのエンジン。スタートさせた時から腹に応える鼓動が頼もしい。小排気量エンジン故に、甲高いサウンドかと思いきや、低く迫力ある排気音なのが意外だ。
 いくら本格的スポーツといっても、いまから半世紀前のクラシックだ。ギアは4段だし、ブレーキはその性能からすればかなり心許ない。サスペンションも思いのほかソフトで、充分にロールもしてくれる。それでも、アバルトを買ってひと走りすれば、充分に汗をかいてしまうほど。「元気の要るクルマ」と形容したのはウソではない、と実感したのだった。

アバルト1000ビアルベーロ、この時代は982ccで91PSを発揮していた。芸術的なエグゾストがなんとも素敵だ。

協力:カロッツェリア マチオヤジマ
http://www.abarth.co.jp/