Ferrari
フェラーリ
クルマ世界のひとつの頂点のブランド。頂点だけにいろいろプラスもマイナスもあるのは当然として、純粋に憧れさせられる存在であるのはまちがいない。われわれが子供の頃にはあまりにも遠い存在で、馴染みもなにもなかったのだが、だんだん広く知られるようになっていまや高価で高性能なクルマの代名詞のようになっている。その過程をつぶさに体験できたのは幸いであった。どこまでも高嶺の花、永遠の憧れであるのはちがいない。逆にいうと、フェラーリのような憧れのクルマがなかったら、貯金する目標を失ってしまうヒトも出てくる、というものだ。
「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
「フェラーリでありながらフェラーリでないアイロニイ」などと気取ってディーノ246GTを手にして、写真集をつくり、いくつものフェラーリ関連の書物を世に送り出してきたのは、やはり純粋に憧れ、好きである証拠だろう。
■ ディーノ246GT/Dino246GT
*FERRARI CLASSIC*
古今のクルマのなかで、現実的に所有できる一番美しいと思えるのがディーノ246GT。飽きることなく名車図鑑のような本を眺め、ある時にそう判断した。いまからずっと前のこと、まだイノウエがここまで深くクルマにのめり込んではいなかった頃だ。したがって、なんの実感もなくただただ理想に近いクルマとしてその名を挙げたのだった。
思いつづければ夢は叶う、というわけではないのだが、まったく現実味を持っていなかったディーノ246GTが、ある日突然に身近かにやってきた。スーパーカー・ブームとやらが去って、中古車店の片隅に買い手の付かないディーノがあったのである。運というものだろうか。ちょっと注目の高かった「ラスト・ミジェット」を下取りにして、まあリーズナブルに値引きしてくれる、という。かくして、イノウエは夢とばかり思っていたディーノ246GTを手にした。
エンジンを直し、ボディを直し、ようやく乗れるようになって、ディーノ246GTの写真本をつくった。持ちきれなくなったら、それはその時だ。そんなつもりでいたのが、もう30年以上経過していま当時よりも好調でいてくれる。こんな濃密で素晴らしいクルマ生活。面倒を見てくれる主治医の存在も大きい。手前味噌でモーシワケナイのだが、いまだ飽きることもなく溺愛状態なのはシアワセというほかはない。