88)オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰ

Austin-Healey

オースティン・ヒーリー

ラリイなどで活躍していた根っからのスポーツカー好きのヒーリーさんが1952年のロンドン・モーターショウに展示した「ヒーリー・ハンドレッド」。オースティンのコンポーネンツを使ってつくり上げたそのスポーツカーは結構な注目を浴びていた。その人垣のなかからひとりの紳士が進み出て、手を差し伸べてきた。「よし、私のところでこれをつくろう!」その紳士こそオースティンのボス、レオナルド卿。「オースティン・ハンドレッド」のエンブレムはその日のうちに「オースティン・ヒーリー」に変えられ、オースティン;ヒーリー100として生産、販売に至る、というオースティン・ヒーリーのはじまりの「物語」は幾度となく語られてきた。イノウエもヒーリーさんの子息であるジェフリイさんから直接伺った真実とともに(「オースティン・ヒーリー、英国の愉しみ」草思社)紹介した。
 まさしく、ヒーリーさんのヴェンチャー企業が成功した、ということか。オースティン・ヒーリーというブランドは、「カニ目」にはじまるスプライトと「100」の後継「ビッグ・ヒーリー」とで華麗な15年ほどの歴史を刻んだのだった。
■ オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰ/Austin-Healey Sprite Mk-Ⅰ
*AUSTIN-HEALEY  CLASSIC*

 オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰと長い名前だが「カニ目」「frog-eyes」で通じてしまう。イノウエも長く愛用している1台だが、そもそも「カニ目」を選択しじっさいに手に入れるにはいくつもの理由があった。長く愛用するには心酔するような理論的裏付けや物語が必要、というわけで、その選択理由はそのまま趣味性の高さを表わすことにもなる。
 先の「ビッグ・ヒーリー」の成功を受けて、もっと小型で安価なスポーツカーをつくれないか、という話がヒーリー父子に持ちかけられた。もちろん父子にとって嬉しい仕事。さっそく、オースティンのエンジンを使い、モーリスのステアリング周りを利用して、という風に手持ちの量産パーツを利用しながら形づくられていった。
 ボディ、シャシー周りはヒーリー父子の腕の発揮しどころだった。結果的に、初めてのモノコック・シャシーのオープンカーということになった。もちろん軽量化、コストダウンのための採用だ。剛性を保つためにトランク(英国流にいうとブーツ)の開口部を省略するなど、それはそのまま「カニ目」の特徴になった。ヘッドランプも同様。小さなボディのどこに組込んでも法規で定められたヘッドランプの高さに足りない。ボンネットからポッコリ飛び出した「カニ目」は必要に迫られての採用だった。

 そんなひとつひとつに納得していくことで、所有する大きな原動力が生まれてくるというものだ。安価だけれども、スポーツカーの味覚を備えた「カニ目」は、大きなヒットとなった。「カニ目」によってスポーツカーの愉しみを知った若者が少なくない、などといわれるとその愉しみを是非とも味わってみたくなる。そんな気持ちで入手した「カニ目」は、飽きることなくわが家に棲みつづけている、というわけだ。
 しかし、大ヒットは災いをももたらす。大きなマーケットを感じた大BMC(オースティンを含む英国随一の自動車メーカー)は、後継車を自らの社内でつくり、しかもオースティン・ヒーリー・スプライトと「バッジ・エンジニアリング(双児車)」でMGミジェットをラインアップするのだ。まさしく大企業の論理。結果的にヒーリー父子とも訣別という当然の結果に至るのだった。

0 thoughts on “88)オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅰ

  • タヌキネコ says:

    つくられた時は、新しいジャンルのクルマとしてデビュウ、というのがいい。なんでも「ルーツ」に位置するものはそれだけで価値がある。

  • ほそえくみこ says:

    1959年のカニ目(要レストア)を買い、コツコツと仕上げてもらっています。
    うちのはグレイ・カニ、元々左ハンドルを右にコンバージョンしました。
    いつになったら乗れるかな?

ヒイキのイケン:

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