56)オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅱ

Austin-Healey

オースティン・ヒーリー

ラリイなどで活躍していた根っからのスポーツカー好きのヒーリーさんが1952年のロンドン・モーターショウに展示した「ヒーリー・ハンドレッド」。オースティンのコンポーネンツを使ってつくり上げたそのスポーツカーは結構な注目を浴びていた。その人垣のなかからひとりの紳士が進み出て、手を差し伸べてきた。「よし、私のところでこれをつくろう!」その紳士こそオースティンのボス、レオナルド卿。「オースティン・ハンドレッド」のエンブレムはその日のうちに「オースティン・ヒーリー」に変えられ、オースティン;ヒーリー100として生産、販売に至る、というオースティン・ヒーリーのはじまりの「物語」は幾度となく語られてきた。イノウエもヒーリーさんの子息であるジェフリイさんから直接伺った真実とともに(「オースティン・ヒーリー、英国の愉しみ」草思社)紹介した。
 まさしく、ヒーリーさんのヴェンチャー企業が成功した、ということか。オースティン・ヒーリーというブランドは、「カニ目」にはじまるスプライトと「100」の後継「ビッグ・ヒーリー」とで華麗な15年ほどの歴史を刻んだのだった。
■オースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅱ/Austin-Healey Sprite Mk-Ⅱ
*AUSTIN-HEALEY CLASSIC*

 「カニ目」のスプライトとして誕生したオースティン・ヒーリー・スプライトは、いきなり大きなヒット作となった。1958年に登場するや、4年足らずの間に5万台近くを生産したのだ。これは当時の2シーター・スポーツカーとしては画期的、といえるほどであった。これは、ちょっとばかり不幸な成功、でもあった。というのは、このカテゴリイにマーケットがあると読んだBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレイション)は、モデルチェンジしてもっと量産しよう、と決断するのだ。そうして誕生したのが「Mk-Ⅰ」がチェンジしたオースティン・ヒーリー・スプライトMk-Ⅱ。さらに、加えて、もっと量販すべくBMC傘下のスポーツカー・ブランド、MGでMGミジェットとしても発売するのだから徹底している。フロント周りその他を少し変更して、MGブランドとした、バッジを変えたことから「バッジ・エンジニアリング」という言葉の所以である。付け加えておくと、したがって、スプライトはMk-Ⅱの時にミジェットはMk-Ⅰを名乗ることになる。
 すっかり万人好みの顔つきになっているけれど、中身はほとんど「カニ目」と変わってはいない。したがって、ぜんぜんスーパーではないけれどシンプルでリッチなスポーツカー・テイストが備わった、コンパクトな佳品、という印象が残る。

ヒイキのイケン:

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