87)オースティン・ヒーリー100

Austin-Healey

オースティン・ヒーリー

ラリイなどで活躍していた根っからのスポーツカー好きのヒーリーさんが1952年のロンドン・モーターショウに展示した「ヒーリー・ハンドレッド」。オースティンのコンポーネンツを使ってつくり上げたそのスポーツカーは結構な注目を浴びていた。その人垣のなかからひとりの紳士が進み出て、手を差し伸べてきた。「よし、私のところでこれをつくろう!」その紳士こそオースティンのボス、レオナルド卿。「オースティン・ハンドレッド」のエンブレムはその日のうちに「オースティン・ヒーリー」に変えられ、オースティン;ヒーリー100として生産、販売に至る、というオースティン・ヒーリーのはじまりの「物語」は幾度となく語られてきた。イノウエもヒーリーさんの子息であるジェフリイさんから直接伺った真実とともに(「オースティン・ヒーリー、英国の愉しみ」草思社)紹介した。
 まさしく、ヒーリーさんのヴェンチャー企業が成功した、ということか。オースティン・ヒーリーというブランドは、「カニ目」にはじまるスプライトと「100」の後継「ビッグ・ヒーリー」とで華麗な15年ほどの歴史を刻んだのだった。
■ オースティン・ヒーリー100/Austin-Healey 100
*AUSTIN-HEALEY  CLASSIC*

 「カニ目」のスプライトは、ヒーリー父子の傑作のひとつというものだが、最大の作品というべきは「ビッグ・ヒーリー」の愛称を持つ一連のスポーツカーだろう。エンジンをはじめとするオースティンの量産部品を使い、独自のボディ/シャシーを使ったスポーツカーを展示したのが1952年のロンドン・ショウ。その会場に現われたオースティン社のボスがヒーリーさんのもとにやって来て「これをウチでつくろう」と握手したところから「オースティン・ヒーリー」ブランドが誕生したという逸話は有名だ。

 そうしてでき上がったのがオースティン・ヒーリー100。スポーツカー乗りだったヒーリーさんがつくったのだから、テイストは文句なし。たとえばフロントのウインドスクリーンが倒せるなどという、実際にクルマ好きならではのアイディアも携えて、なかなかのヒット作となった。とくに北米での人気は高く、初期の直列4気筒は1956年から6気筒に換装してオースティン・ヒーリー100/6に、さらに2.9Lに拡大してオースティン・ヒーリー3000となる。4気筒の時代にもレーシイなオースティン・ヒーリー100Sや軽度のテューニングアップをした100Mを次々加えるなど、話題性にも事欠かない。
 「ビッグ・ヒーリー」というだけあって、ダイナミックな走り振りをみせるオースティン・ヒーリー100。英国紳士を気取れる魅力ある1台だ。

ヒイキのイケン:

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

一覧へ戻る